Day4

メルがマサミの家で働き始めて、しばらく。

初めのうちは一日働くごとに熱を出しては倒れていたが、ようやく慣れてきたのか熱を出す頻度が減ってきていた。それと比例するように積もっていた埃を片付けることが出来、今では掃除も大分楽になった。以前は掃除だけで手一杯だったのが、食器を洗ったり洗濯物を干したりすることもできるようになっている。大きな進歩だった。

話し方も注意する必要がなくなり、掃除をするからかわいい服装からも解放される。家事は嫌いではないし、メルからすればとてもいいアルバイトになりつつあった。体力がないのはどうしようもないが、家で大人しくしているよりも楽しかった。

そんな日々に慣れつつあった中、メルは少しの変化にも過敏に反応する。

「…………まただ」

洗濯機を回そうと、扉を開けたところで顔をしかめる。

香水の匂いがする。マサミの匂いではない、母の匂いとも違う、どこかの見知らぬ女の匂いだった。鼻につくそれが嫌で、メルはさっさと洗剤を放り込んで蓋を閉めた。

マサミがいくつか知らないが、メルよりは年上の男だ。恋人がいることもあるだろう。しかし、時々ひっかかるこの香水の匂いはいつも違うのだ。いつも、別々の人間の匂いが混ざり込んでいる。どう表したらいいのかわからないが、メルにとってはあまり気分のいいものではなかった。

知らない人間の匂いがするたびに、なんだか胸がざわりとする。それはなんだか、自分のテリトリーに侵入された時のような。

――マサミが誰といようが、わたしには関係のない話だ。

言い聞かせるように、洗濯機を回す。だがこの匂いがするということは、マサミの具合が悪い日だ。この匂いがする日は大抵、彼はメルの前に姿も現さない。今日も彼は自室に籠もっていて、玄関を開けてくれたのはキュウコンだった。

胸がざわりとする。メルは環境の変化にも弱い。きっとそのせいだと感じていた。変化に過敏すぎる体が、時折まぎれる香水の匂いを拒絶しているせいだと。実際、匂いを感じ取った後は体調を崩すことも多かった。

「……嫌な感じがする」

ぽつり、と呟いてリビングに戻る。食器を洗わなければいけなかった。

+++

ベッドに潜り込んで、マサミはじっとしていた。

朝に帰ってきて、それから。ずっと眠っていなかった。眠れる状態ではなかった。

女に会った次の日はいつもこうだ。神経が尖って、ぞっとするような気持ち悪さに襲われながら、一人縮こまって横になることしか出来ない。自分が気持ち悪くて仕方なくて、怯えながら収まるのを待っていた。

メルはこんな自分になにも聞かないで仕事をしている。あの娘の他人への興味の薄さはマサミにはちょうどよかった。どんなに無害だと言い聞かせてもメルにさえ会うことが辛いから、最近ではすっかり何もかもを任せきりにしている。しかし、彼女を雇い入れてからこれが酷くなったのもあり、メルへの評価はどうしたらいいのかわからないでいた。

「…………っ」

うずくまりながら、脳内では昨日の様子が再生される。

気分が悪くなるほど濃い香水の匂い。柔らかくてぞっとするような肌の感触。耳鳴りがする甲高い声。八つ当たりする自分の醜さと、自分を利用しようとする女との神経をすり減らすような会話。知らないベッドの上で行われた行為のおぞましさ。

どれもこれもが嫌だった。いつも終わった後にこうなることがわかっていても、傷付けてやらなければ自分を保つことすら危うくなる自分も嫌だった。どんなに傷付けても次から次へと湧いてマサミに寄ってくるから、そのせいでこんなに苦しんでいなければいけない元凶が憎らしくて仕方がなかった。

苦しい。だけど、こんなことを誰に話せるわけもなくて。

自分でどうにかするしかなくて。

そうやってずっと、自己嫌悪と女性嫌悪の渦に呑まれて沈んでいた。その静寂の中で。

どかん! と大きな音が響く。外からだ、庭から。まさか。

「な、なんや!? 泥棒でも来たか!?」

無理矢理に思考を断ち切られ我に返る。時計を見れば三時――メルがポケモンたちを庭で遊ばせているはずの時間だ。悪い予感が様々にマサミを襲う。メルのポケモンが強かろうと、それ以上に強い人間が出てくれば意味がない。

とにかく慌ててコートを羽織り、すぐ隣のポケモン部屋から庭へと出る。

「おい、無事か!?」

「マサミ。起きてきていいのか?」

崩れるように扉を開けた先で、メルがけろりとマサミを見る。

状況がよくわからなかった。ポケモンたちは全員無傷の中、見知らぬ男が一人リザードンに踏みつけられていた。とにかく、被害は無事に食い止められたと見ていいのだろうか。混乱していると、メルが動揺する様子もなく近付いてくる。

「すまない、起こしたか」

「おい……なにが」

「なんでもないぞ、ただのストーカーだ」

リザードンに踏みつけられた男は既に気を失っている。その隣には同じように瀕死にさせられた、男のものだろうユンゲラーが転がされていた。

ストーカー。メルはなんの感慨もなくその言葉を口にする。

「よくあるんだ。わたしを誘拐しようとしたり、危害を加えようとしたりする人間が来るのは。最近はずっとここにいたから、外に出るのを待ってたみたいで」

「よく……あるのか」

「ああ。大丈夫だぞ、全部ニドキングたちがなんとかしてくれるからな」

心配をかけたな。平然とそう述べて、感慨もなく犯人を見る。そこに恐怖を感じる様子はない。

ストーカーは、マサミも遭う。ただ着いてくるだけでも神経がすり減るのに、大抵襲ってくるからいつも命からがら逃げては通報していた。よくあるというほどの頻度ではなくても怖くて仕方がないのに。

愕然とした表情でメルを見る。実際に襲われているのに、ポケモンがいるだけでそんなに堂々としていられるものだろうか。信じられない神経の図太さだと思いながら、少しだけ羨ましくなる。

「……お前」

「ん?」

「怖くないんか?」

男にそんなに被害を受けて。

震える声で問いかけた。自分はこんなに異性が怖くて憎くて仕方がないのに。そんなに幼いうちから被害を受け続けていて、メルは異性に恐怖を覚えないのか。トラウマになったりしないのか。不思議で仕方がなかった。

問われたメルは、少し困ったような顔で笑う。初めて見る表情だったそれは、珍しく彼女が生きている印象を受けさせる。

「怖い」

可愛らしい顔を少しだけ弱らせて、一言。

怖いと言うのに、マサミに怒りをぶつけられてもひるみさえしなかった彼女は語る。

「それでも、わたしを守ってくれる人がいる限り、わたしは平気だ」

父や、母や、ポケモンたち。そういった人たちが守ってくれるから、怖がる必要なんてない。傲慢すぎるほどの信頼を寄せて、彼女は語る。絶対に守り切ってくれるという、不遜な信頼。それに足るだけの人間でいるという自負。

それだけ、彼女は周囲の人間に愛されているのだ。大切に育てられてきたお姫様。だからマサミに言ったように、簡単に他人に頼れるのか。怖いと思う男相手なのに、自分を守ってくれるポケモンたちがいるから。

羨ましいと、思った。

「……マサミ? どうした、黙って」

「……ああ」

「酷い顔だぞ、まだ具合は悪いか」

そっと、メルの細い手がマサミの顔に伸びてくる。

無遠慮に、無防備に、届くかもわからないくらい小さいくせに、熱でも測るような動作で。

首に伸びてくるその手を、なんだか首を絞めてくるように錯覚して。

「触るなッ!!」

「!」

気持ちが悪くなって、力一杯に払いのけた。

払いのけた手が痛い。心が痛い。

情緒不安定だ。自覚があったが、どうにもならない。全部女のせいだ。女のせいだった。

「……部屋に戻る」

メルはそれになにも言わなかった。最後まで彼女は彼女のまま、無関心にマサミを見るばかりでそこに感慨は見られなかった。

+++

「……ふぅ」

疲れた、とメルは椅子に座る。がらんどうのリビングで、ため息ばかりが大きく響き渡った。マサミは一度顔を見せたかと思えば部屋に籠もり直してしまったし、ポケモンの世話に加えて警察への通報もあり、メルにはいささかキャパオーバーだった。机に伏せて体を弛緩させる。マサミの様子がおかしいのも少しだけ影響していた。

メルがストーカーや暴漢に襲われるのはいつものことだ。とはいえ、人の家にまで追ってこられると迷惑がかかってしまうので軽く参っていた。マサミの手を患わせずに済んだものの、バレた以上これのせいでクビを切られると困る。

そんな体力の限界に、帰る気力もなくうだうだと休憩をしていた。もう少し対策を練る必要があるだろうかと思いつつ、手を出してくる極少数のために疲弊するのも面倒臭かった。

「……ん、どうしたキュウコン」

そろそろ帰らないと母に怒られてしまうかな、と考えたとき、キュウコンが何か紙を咥えて近付いてくる。普段、メルのことを警戒して近付いて来ないのに。不思議に思いながら、その紙を受け取る。

白い、なにも書かれていない封筒だ。なにか固い物が入っているらしいそれを、受け取ったはいいものの、どうしたらいいか悩む。マサミに届いた郵便物なら、メルが開けるわけにいかないだろう。普段の業務でも郵便物には触らないように言いつけられていた。

それなのに、どうしてキュウコンがメルにこれを渡したのか。不思議に思っていると、キュウコンは一つ鳴く。開けろと言うのか。

マサミの手持ちの中でも最も寵愛されている様子のキュウコン。彼が言うならば、と思って封筒に手をかける。開けようとしたところで――なにかに刺されて、手を止めた。

「…………?」

見ると、左手のひらから血がぷっくりと浮き出ていた。メルが飲み込めずにいるうちに、止まりきれなくなった血が一筋、手首へと流れていく。愕然としながら封筒を見ると、下の方からきらりとなにか金属が覗いていた。

血を拭って、今度ははさみを持って封筒を切り開く。中から出てきたのは、紙切れと――メルの手を傷付けた、むき出しのカミソリだった。

ぞっとしながらも紙の方を見る。

「マサミくんに、近付くな……わたし宛?」

それは、明確な脅迫の言葉。時々読めない漢字があったが、悍ましい殺意の言葉であることくらいはわかる。酷い中傷の羅列ばかりの手紙。こんな、はっきりとした殺意と敵意を向けられるのは初めてだった。カミソリから伝わる怨念に、さしものメルも怖くなる。

メルはストーキングや誘拐の標的にされることが多い。それは慣れているし、そこに、結果はどうあれ害意はない。だからニドキングたちに任せていても平然としていられたし、もしもポケモンたちが負けて攫われたとしても、メルが死ぬわけではない。その先を想像したくもないが、少なくともそれだけは信じられた。メルを好き、メルをものにしたい、そんな欲望こそあれど、メルに酷い言葉を投げかけることはなかった。

しかし、これはどうだろうか。はっきりとメルに対する害意が感じられた。それに、マサミに対する害意もだ。

思えば当然の話だ。メルから見てもマサミの容姿は非常に整っている。涼しげな目元から感じる怜悧な様子は人を惹き付けることだろう。女性からのアプローチも多かろう。

それこそ、メルのように。

「……同じなのか、わたしと」

向けられた害意に、思わずキュウコンに問う。

マサミがメルと同じように、異性に傷付けられてきたならばキュウコンがメルになつかなかったのもよく理解できた。キュウコンにとってメルはマサミを傷付ける可能性のある敵なのだ。そしてこれを渡してきたのは、メルがマサミと同じ立場だとキュウコンが知ったからか。

キュウコンは切なく、一つ鳴く。

その肯定は、無音の家の中によく響いた。

「…………」

手紙の主は、マサミの周囲にメルがいることが気に入らないのだろう。それはわかっていたが、メルはこの悪意にどう対処したらいいのかわからなかった。同性であれ異性であれ、好意を向けられるのは慣れている。それによる被害にも。しかし、他人の巻き添えで悪意を向けられるのは初めてだった。

マサミは、この手紙について知っているのだろうか。こんな悪意に、いつも晒されているのだろうか。メルに向けられるものとは別種のそれに、思わず同情する。

ようやく状況が飲み込めてきて、そっと手紙を鞄にしまった。マサミに知らせるわけにはいかない、そのせいで関わりを断つことになったらそれこそアニーへの手がかりがなくなってしまう。

「キュウコン、今日は帰るが、このことをマサミには言わないでくれ。わたしの方は自分でなんとかできる」

マサミは、口こそ悪いが真面目な男だ。散々言いながらメルのために環境を整えたり、きちんとアニーの居場所を探そうとしてくれていたり。アルバイトを始めてそこそこ経つ今ではそんな性格をよくわかっていた。だからこそ、彼に自責の念を抱かせるにはいかなかった。

メルはいいのだ。だって慣れているのだから。どんな悪意を持たれても、多少の不快さはあれど他人にどう思われたって気にしたことなどない。メルを守ってくれる人はたくさんいるし、なにより他人に興味がない。だが、他の人間がそうでないことくらい、あまり交流がなくても知っている。

あまり酷くなるようなら対処すればいい。とりあえずは、マサミには気付かせないことの方が重要だった。

+++

空港から出た瞬間、吹きすさぶ冬の風にナナミは身を震わせる。久しぶりに帰ってきたカントーの空気は懐かしいような、以前とはすっかり変わってしまったような、不思議な気持ちになる。カントーに帰ってくる度にそう感じた。世界があまりにも早く変わってしまうせいで、最近では殊に置いていかれるような気持ちになるのだ。

夫のマサキに着いて回って、世界各国を巡ることが多いせいかもしれない。マサキが世界の最前線を走って行くのをなんとか着いて行っているが、だからふと周囲を見ると自分だけが取り残されている気持ちになる。年を取ったのだろうと嫌でも自覚してしまうから、ナナミはこの感覚があまり好きではなかった。

マサキの仕事は元より忙しかったが、子供の手が離れると同時にさらに仕事を増やしたせいで最近では滅多に自宅に帰れていない。これではなんのためにヤマブキに住居を移したかもわからなかった。ナナミだけはこうやって定期的に帰っているが、いっそ家を売ってしまった方がいいのではという気さえする。

今日の帰国は三日間。家の様子と息子の様子を見たらまたすぐにイッシュに戻らなければならないが。

――マサミは、元気にしてるのかしら。

夫に似て優秀な息子だ。生活に支障はないだろうが、しかし大学へ進んでから反抗期に入ってしまって、すっかり彼のことがわからなくなってしまっていた。元は素直で勉強が好きな優しい子だったのに、と昔を思い出す度に、ナナミは今に着いて行けていないと考えてしまう。

大学を一年で卒業してくるのまでは、別に不自然ではなかった。だがあれだけよく笑う子だったのに、戻ってきてからいつも不機嫌そうな無表情の男性に変わってしまって。大学に入る直前から急激に身長が伸びたのも相まってマサミを以前と同一人物だと思えない自分がいる。そのうえ、息子を一人置いて夫に着いて行っているのだから、わからなくなるのも当然ではあるのだが。

――グリーンは元からあんなだったから、困らなかったんだけど。

息子によく似た弟を思う。同じ無愛想で不機嫌な男だけれど、グリーンは他人を拒絶することはない。息子も元は人懐こい子だったが、なにがあってあんなにも他人を拒絶するようになってしまったのだろう。

それに、息子につきまとう女の匂い。

なにかがあるんだろうな、という女の勘はあった。恋人が出来たのではない、よくない女の匂いの付き方。だがそれも、交流が途切れ始めているせいで理由がわからない。

「……はぁ」

思わずため息が漏れる。

色々なものに置いていかれている。世界から距離を取ったのは自分の方だろうか。自覚すればするほど、これから息子に会うのが辛くなってくる。今でもかわいい一人息子だが、会う度怒鳴られるのは母親として辛い。夫がいると余計に荒れるので、自分一人で行くしかないわけだが。

冬の刺さるような風がナナミを煽る。世界から取り残されたナナミを責めるように。ナナミはそれに、耐えることしかできなかった。