トキワの森
さくっ、とその地を踏んでから、一歩も足が動かない。
目の前には陽の光を通さない薄暗く壮大な森。
見通しは悪く、獣道のようなかすかな道しか見えないその場所は、もう一歩踏み込んだら戻れなくなりそうなほど入り組んでいる。
ここは天然迷路”トキワの森”。
その怖さはマサラの子供の中では有名だ。
一歩踏み込めば戻ってこれず、獰猛な虫ポケモンだらけで生半可な実力のトレーナーではけして通り抜けることはできない。
大人たちが口を揃えて言う、この森の恐ろしさは、最も単純に見れば子供たちが好奇心に任せてこの森に入らないためのフェイクだ。
ポケモンを持ち始めて舞い上がって、トキワの森に探検に行って帰ってこれなくなる子供は、毎年数人出る。だからできるだけ行かせないようにしようという、大人たちの優しい嘘だ。
そう、だから、通り抜けられないということはないはずである。
ニビシティへ行くためにはトキワの森を通るしかないのだから、通り抜けられないわけがないのである。
サツキはそれを知っている。
知って、いる。
「……ここ、通らなきゃだめかなぁ……」
わかっているのに、サツキは前へと進めないでいた。
生来の臆病がこんなに早くに祟るとは。否、わかってはいたのだ。
トキワの森に来ることはある。だがそのときはいつもユリカがいて、自分を無理矢理ひっぱって連れていくからおびえる暇がなかっただけだ。
だからサツキ一人で来たら進めるわけがないのだ。
薄暗い、不気味な森の奥を見る。
赤く光る複眼が、いくつもいくつもサツキの動向を睨んでいる。
――進めない。
「どう、しよっかな…………」
この先、躓きそうな場所なんていくらでもあるのに、はじめからこのていたらくではどうしようもない。
頭を抱えようとした。
そのとき。
ガタッ、ガタッ!
と、腰のボールが震えて、なにかがサツキの前へと飛び出した。
「えっ。……あっ、だめだよ、勝手に出ちゃ!」
水色のつるつるした頭に、背中には甲羅。
キラキラくりくりした大きな目は、トキワの森をめいっぱい映して、なに一つ見逃さないように大きく開かれている。
かめのこポケモン、ゼニガメ。まだ生まれたばかりの女の子。
オーキド博士からもらったばかりの子だった。
その足は思いの外早く、ずんずんと森の奥へと進んでいってしまう。
一瞬だけ、追うことをためらって、けれど姿が見えなくなる前にと慌ててサツキはゼニガメを追った。
ざわざわと足を撫でる草の嫌な感触を振り切って、ゼニガメだけを見て走っているうちにそれだけで頭がいっぱいになる。
たんっ、と最後の一歩を踏み込んで、サツキは小さなゼニガメの体を抱き上げる。暴れられるのを押さえ込んで、キッと睨みつけて、一言。
「こらっ、一人で先に行っちゃだめでしょ! 迷子になったら、もう会えなくなっちゃうんだよ!」
不満げなゼニガメをあやして、別に外に出てていいから一緒にいてね、と諭す。
この好奇心旺盛なゼニガメは、どうにも外に出たがるところがあった。そしてマイペースに、好き勝手に出歩いてしまう。捕まえているだけでも大変だ。
マサラタウンを出てからもう四時間が経とうとしている。本当ならお昼ぐらいにはニビシティに着いているはずだったのに、まだトキワの森の入り口にいるのはゼニガメがあちこちに走り回るせいだった。
このままじゃ、先が思いやられる。
さっき立ち止まっていたときとはまったく別の理由で、サツキはため息をつく。
あんまり振り回されているとポケモンリーグの開催までにカントーを回りきれないんじゃないかと思う。
「……でも、ありがとう。おかげでトキワの森に入れたよ」
ゆっくりゼニガメの体を降ろして、けれどはぐれないように手は繋いで、お礼を言う。
あんなに怖いと思っていたトキワの森だったのに、ゼニガメを追いかけているうちに入り口が見えないところにまで来てしまっていた。
ゼニガメが出てきてくれなければ、サツキはあのまま途方に暮らしていただろう。
臆病なサツキには、こんな風に振り回してくれるこの好奇心旺盛なゼニガメと一緒にいるくらいがちょうどいいのかもしれない。
意外と、入ってみればそんなに怖いものでもない、と思わないでもない。
ユリカと遊んでいる時を思い出す。どんなに怖い場所に連れて行かれても、入ってみればそれなりに楽しんでいたから、きっときっかけがあればサツキは大丈夫なのだ。
だからきっかけを作ってくれた、ゼニガメには感謝しなければならない。
「どっかに勝手に行くのは嫌だけど、……またさっきみたいに止まっちゃったら、そのときは君が連れてってくれる?」
語りかけると、ゼニガメは大きく頷いた。それも、とびっきりうれしそうに。
役割をもらえて嬉しいのかもしれない。感情豊かなゼニガメは満面の笑顔で鳴いて、はーいっ、と手を上げた。素直でかわいい子だと思う。
「そういえば、君の名前、まだ決めてなかったよねえ。うーん……ゼニガメだから……。…………メーちゃん、なんてどうかな?」
君の名前だよ、気に入ってくれた?
目線を合わせて聞いてみる。きょとん、とゼニガメは首を傾げてサツキを見つめ返す。
わからなかったのかな、と思って今度は指をさして言ってみた。「君は、メーちゃん」。
そうしたら呼ばれたのがわかったのか、今度は笑顔ではーいと手をあげる。これで決まりだ。
「よっし、君の名前は今からメーちゃんだよ! 新しい仲間の名前も決めたことだし……出ておいで、ミーちゃん」
名前を決めると、だんだん気分も明るくなってきて、今度は相棒のヒトデマンのミーちゃんを呼び出す。
ぴかぴかとコアの宝石を点滅させて、ミーちゃんもご機嫌に飛び出してきた。
改めて二匹に挨拶をさせて、止めてしまった足をもう一度踏み出してみる。隣にいてくれるミーちゃんと、手を繋いでいるメーちゃんの体温のおかげで、もうトキワの森を怖いという気持ちは和らいでいた。
仲間がいるなら、案外薄暗いのも平気かもしれない。
「さぁ、トキワの森に入ったことだし、ニビに着くまでどんどん特訓しなくっちゃね」
トキワの森にはたくさんの虫ポケモンがいる。あちこちの草むらに隠れているキャタピーやビードルにもらったばかりの図鑑をかざしながら、今後の予定を立ててみる。
一応、目指すはポケモンリーグなのだ。不本意ながら。
そのためには、できるだけジムバッジを手に入れなければならない。もちろん、バッジを集めるともらえるのは本戦出場権だから、バッジを集めなくてもポケモンリーグには進めるが、レベルアップを怠っていいわけではない。
それに。
――あんなに人を馬鹿にした戦い方をするあなたと戦いたくない。
オーカに言われた、あの言葉。
その理由を探すために、ジムリーダーたちと戦うのも大切なのだと、思った。
――遊びでやりたいと思っているうちは、たとえ俺に勝っても行かせない。
そう父に言われたからには、ポケモンリーグに挑む前に父に挑戦することは義務だと思った。
父には最後に、サツキが旅で学んだことを見てもらわなければならない。だから、今サツキはトキワジムを飛ばしてニビジムへと向かおうとしているのだ。
正直、オーカや父にそう言われることの理由がまだわからない。
この旅でなにかが見つかるのかさえわからない。
それでも進まなければならないことは苦痛だった。だが、挑まれたものを放棄することも嫌なのだ。
旅が終わったとき、サツキが求められている姿になれているかはわからないが、とにかく行ってみるしかない。
「あっ、キャタピー。……よし、メーちゃん、初バトル行ってみよ……」
「待てーっ、いたずらピカチュウー!!」
「!?」
ガサッ。
飛び出してきたキャタピーの後ろを、素早く駆け抜ける黄色の生き物。それを追いかける麦わら帽子の女の子。
キャタピーの前にメーちゃんを対峙させたまま、一瞬で後ろを駆け抜けた“それら”をサツキは凝視する。
今のは――オーカ?
小さな麦わら帽子を被った、深緑のジャンパースカートの後ろ姿が通り過ぎるのを見る。そして確信する。あれはたしかに、オーキド博士の娘のオーカだ。
驚きにぽかん、としているところにミーちゃんが裾をひっぱる。
見ればすっかり、キャタピーは逃げ出してしまっていた。どうすればいいのかわからなかったメーちゃんがきょとん、とサツキを見上げている。
やられた。
頭を抱えて、もう一度オーカの駆けていった方向を見る。なにかを追いかけていたようだった。
「いたずら、ピカチュウ……?」
「あっ、おい、そこの嬢ちゃん!」
「えっ、はい」
次にサツキたちの前に現れたのは、虫取り網を持ってぞろぞろと歩いてくる中年男性たちの集団。
あちこちを警戒するように男の人たちはきょろきょろしながら、一人がサツキに近づいてくる。
いい年して虫ポケモン採集だろうか、と首をひねるが、どうにもそんな和気藹々とした雰囲気でない。大人の男の人たちがこうもピリピリ、険しい顔をしているとつい背筋が固まってしまう。
「この辺をピカチュウが通らなかったか。たしかにこっちに来たはずなんだが」
「あ……えーと、たぶん、あっちです」
聞かれて、ついオーカの走った方向を指さしてしまう。
言ってからオーカのポケモンの捕獲する時に邪魔なんじゃないかと思い至ったが、それを止めるまでもなく男の人たちはそちらへと走っていってしまった。
ぽかん、とサツキはミーちゃんメーちゃんと顔を合わせる。
あれは、なんだったのだろう。
「そんなに珍しいピカチュウなのかな」
ピカチュウは、知っている。
父レッドの友達の一匹。赤いほっぺに黄色のシャツ、ギザギザ模様のしっかり者なピカチュウだ。
まだ小さいサツキが乱暴しても怒らず、危険なことをしようとするとぴりっとする電流で注意してくれた。
そんなピカチュウの印象が強いからだろうか。なんだかピカチュウがあんなに色んな人に怒られながら追いかけ回されているのがなんとなくしっくりこない。
しかしともかく、せっかくキャタピーと戦おうとしたのに二回もピカチュウのせいで邪魔をされてしまった。そう思うと、なんだかいらだたしくも思える。
「……よし、行ってみよう、ミーちゃんメーちゃん!」
奮起して、オーカや男たちの消えた方向に走り出す。
ショートパンツの水着では、草で足を切るからとさっきまで比較的道らしい場所を通っていたから、あまり踏み固められていないその草むらは歩きづらい。
ざわざわ、ざわざわと草が足を撫でてくすぐったいし、ときどきぴりっと痛みが走ることがあった。だがこれくらいの痛みは我慢できる。
急がなければオーカたちに追いつけない。もうとっくに姿は見失ってしまって、見つけるのは難しいかもしれないが足は早い方だ。とにかく走るんだ、とそれだけで頭をいっぱいにする。
ざくざくざく、と草むらを踏み分けてサツキは駆ける。
他の草よりも少し踏まれた跡が残っているのを手がかりに、どんどん出口への道から逸れていく。
それが楽しいのか、メーちゃんはキラキラした目でサツキの隣を走り抜かしていってしまう。
「メーちゃん、あんまり先に行かないで!」
それに焦ってスピードをあげると、少し先でメーちゃんが立ち止まった。
あっさり止まったメーちゃんに驚きながら、その近くへ行くと大きな麦わら帽子が草の合間から見えた。
サツキたちが追っていた道から、ほんの少しずれた場所。草の陰に隠れるように、麦わら帽子の彼女がへたり込んでいる。
「……オーカ? どうしたの?」
「っ……はぁ……。さ、つきさん…………?」
苦しげに息を繰り返して、オーカが顔を上げる。
メーちゃんはだから立ち止まったのか。
納得して、苦しそうにするオーカの背中をさする。大きな息を繰り返して、少し呼吸が収まったのを確認してから、サツキはもう一度同じ質問をしてみた。
「どうしたの、こんなところで座り込んで。息も荒いし……」
「ぴ、ピカチュウに、お昼ご飯食べられちゃって。追いかけたんですけど、つかれて……おなかすいて……」
ぐぅぅぅ、と聞こえるくらい大きな腹の音がこだまする。
疲れた、までなら見た目でわかった。しかしお腹が空いたとは。そういう、子供っぽいような、間抜けなような理由にびっくりしてしまう。
オーカはもっとしっかりしていて隙がないように思った。イメージとの妙なギャップに混乱しながら、サツキはリュックの中をまさぐる。
「はい、食べなよ」
「……えっ?」
「お腹空いたんでしょ。このまま動けないんじゃ、ニビシティに着く前に死んじゃうじゃん。あげる」
サランラップに巻かれたサンドイッチ。
それをずいっとオーカの前に差し出す。
母が、旅立つ前に持たせてくれたもの。それは旅の中での最後の母のご飯だが、別にハナダシティでも会えるからサツキは未練もない。
お腹は空いたが、あとできのみでも拾えばいいだけだ。
「でも」
「あたしピカチュウ追わなきゃ。じゃあね」
断ろうとするオーカの手の中にサンドイッチを押しつけて、ポケモンたちに目配せをして早々に立ち去る。ちょっと、とか、あの、という声にも振り返らないで置いていってしまう。
多分、回復したら追いかけてくるだろう。そのときは怒られてあげるから食べて元気になってほしい。
オーカの上気した頬と潤んだ黒目がちなつり目と、反対に不自然に真っ白な肌を思い出す。
あんな小さな子のご飯奪って、苦しませるなんて、あの追いかけられていたピカチュウにはちょっとお説教をする必要があるかもしれない。
それに、ピカチュウを追いかけていたあの中年男性の集団も気がかりだ。
たった一匹に、大勢で、虫取り網を持って男たちが追いかけるだなんて、つい呆けて眺めてしまったが今思えば異常な光景だった。
大人の男の人たち大勢に対して一匹だなんて、それはとても不公平だし、なにより捕まった後あのピカチュウはなにをされるのだろうと考えると不安になる。
話を聞いてみたかった。
具体的になにを、というわけではない。
ただ、放置しているとなにか怖いことが起こりそうだから、自分がワンクッションになりたいと思ったのだ。
わずかに踏まれた草の跡を追って、サツキは走る。
ミーちゃんもメーちゃんも、少し疲労が見えてきたがそう遅れずに着いてきてくれていた。一瞬だけミーちゃんを振り返ると、わかっていると言うようにコアをピカピカと光らせる。
それに勇気づけられて疲れてきたのを我慢して走り続けると、やがて大人たちの背中が見えてきた。
もう走ってはいない。高い位置に虫取り網を構えて、じりじりとなにかを囲んでいるようだった。
「さぁ、観念しろいたずらピカチュウ。今日こそおまえを捕まえてやる!」
「ダメ――――ッ!!」
突き飛ばして、走り出て、囲まれていたピカチュウの前に飛び出す。
一斉に振りおろされた網が、勢い止まずにサツキにかかる。大人の力で振りおろされた網は痛かったが、我慢して大人たちを睨むと怯えたように網を上げていく様子はなんだか滑稽だった。
「大丈夫、ピカチュウ!」
「なんなんだ嬢ちゃん、危ないだろう!」
「危ないのはそっちだよ! なんでよってたかって捕まえようとするの、ポケモンバトルとかゲットとかって感じじゃない!」
叫ぶサツキに、大人たちはやりにくそうに顔を歪める。
そして代表っぽい一人が、妙に優しげな顔を作って一歩サツキに近寄る。それと同じように、サツキが一歩下がる。
サツキを守るようにミーちゃんとメーちゃんが前に出て、奇妙な構図を作って再び話が始まる。
「あのな、そのピカチュウはな、ニビシティで散々悪さを働いてくれたんだ。おかげで家は荒らされるし、店のものはダメにされるし、子供は怪我をさせられてきたんだ。そんなピカチュウを放っておくわけにはいかないんだよ。さぁ、退いてくれ」
「やだ」
「あのなぁ」
「それでこの子に乱暴していいってことにはならないもん! 絶対、させない!」
叫ぶサツキに困り果てたように、代表の男は他の大人たちと相談をする。
この隙に、とピカチュウに振り返る。
ピカチュウは、状況が呑みこめていないのか、きょとんとサツキを見上げている。その周囲は妙に電気が溜まっている。きっと、ここでずっと抵抗をしていたのだろう。
このピカチュウがしてきたことは、多分許されることではない。だけど、それを教えてあげることだって可能だと思うのだ。
そんなこともしないで、ピカチュウをどうこうしようなんて許せない。
「行こう、ピカチュウ!」
大人たちがサツキの対応に困っている隙に、サツキはピカチュウを抱いて一目散に森の奥へと駆け出す。
追いかけてこようとする大人たちにむかって足止めにダブルでみずでっぽうをお見舞いしてもらったあと、一旦二匹をボールへと戻す。
がんばって走ってもらったのに申し訳ないが、逃げきるならサツキ一人の方が見つからずに済みそうだと思った。
「大丈夫、君をあの人たちに渡したりなんかしないから」
きつく、ピカチュウを抱きしめる。
ぽかんと口を開けたピカチュウはただ大人しく、サツキの腕の中に収まっている。もう少しでいい、このまま一緒にいてほしい。
せめて、あの大人たちから見つからないほど遠くに行けるまで。
ざくざく、ざくざく、草をかき分けてサツキは走る。森の草は奥に行けば行くほど高くなっていって、先ほどまでは足首までだったはずなのに気付けば腰まで伸びている。
走ろう走ろう、と気持ちばかりが焦って足が思うように進まないのが苛立たしい。普段思い切りよく走るときのスピードが出ない分、逆に体力が削がれていく。
だが、それは大人たちも同じことだった。背後から焦るような怒号が聞こえてくる。
あの人数だと、先頭が詰まったら進むのも難しいだろう。一人で来て正解だったとサツキは思う。
ゆっくり遠くなっていっていた大人たちの声が途切れてきたところで、サツキはポケモン図鑑を取り出す。中にあるタウンマップで現在地を確認するのだ。
オーキド博士は随分と便利なものを渡してくれたもので、図鑑だけでなく、ポケモンとの親密度だけでなく、タウンマップもつけてくれていた。
それも、ただ漠然としたカントーの地図ではなく、トキワの森の地図も出してくれる優れものだ。こんな深い森でも狂わされずに現在地まで示してくれる。
焦りながら開くトキワの森の地図の中に点滅する赤い光。サツキの現在地は、今ニビシティ方面の出口よりも遙か東の方らしかった。
くるくると図鑑を右から左へと向けて、方角が出口の方へと向くのを確認する。
このままトキワの森を捕まらないように抜け出して、ニビシティの端の方でこのピカチュウを捕まえよう。この森では見晴らしが悪すぎるから、逃げられると困る。
「あっ、ダメ、触らないの!」
そんな算段をつけて、図鑑をホーム画面に戻して仕舞おうとしたとき、今までぼんやりしていたピカチュウが図鑑の画面にタッチする。
慌ててピカチュウから離すも、既にくっきりとピカチュウの手形が画面に付いてしまっている。落とすのが大変そうだ、とサツキはちょっとげんなりした。
「……あれ?」
改めて仕舞おうとする、その時、ピカチュウによって開けられた画面が目に入った。
それは、ポケモンとの親密度を測る、博士の研究のためのデータ用アプリ。
いつも通りミーちゃん、ヒトデマンのアイコンと、メーちゃん、ゼニガメのアイコンが画面には浮かんでいる。その隣には親密度を表しているらしいバーも出ている。
ミーちゃんは画面端近くまで出ているのに対し、まだ知り合ったばかりのメーちゃんは小指の爪ほどの長さもない。
それは、いつもどおりの画面。
しかし今は、メーちゃんの下に、黄色のアイコンが浮かんでいた。
その隣のバーの長さは――――……。
「いたぞ、あそこだ!」
「やばっ。見つかった!」
大人の男の大声に肩を跳ねらせ、大急ぎでポケモン図鑑を仕舞う。
このまま、まっすぐに進めばニビシティ。それさえ見失わなければ大人たちは撒けるはず。
「あとちょっと。我慢してね、ピカチュウ」
抱きなおしたピカチュウは、少し、緊張がほぐれているような気がした。
+++
あれから。
草の間に隠れて休んだりしながら、サツキはどうにか、ニビシティの外れまで走りきっていた。
石の町、ニビシティ。
その中心よりもオツキミ山に近い、石畳の舗装もされていない場所に、ピカチュウと向かい合う。
痺れて痛い腕をほぐしながら、サツキは待っていた。
食べ物を奪い、子供を襲い、大人たちを小馬鹿にするように逃げ回っていたピカチュウと向き合いながら待っていた。
静寂の中、近づいてくる足音を背にサツキはゆっくりとボールを取り出す。
現れる、星形のポケモン、ヒトデマンのミーちゃんが背筋を伸ばしてピカチュウの前に立つ。
そんな、さっきまでと違う、サツキたちのぴんとした緊張感を敏感にかぎ取って、警戒しながら一連の動作を眺めていた。
このピカチュウは敵意に敏感だった。あの男たちに対して一切油断しない気の張り方と、サツキに対する身の委ね方がそれを感じさせる。
空気をばちばちと鳴らせて、ピカチュウはサツキとミーちゃんに向き合っている。まるで西部劇の決闘のような空気で。
これから、この後、このピカチュウがどんな風にサツキに接してくるのかそれはわからない。大人たちの言っている風からすれば、きっとこのピカチュウと向き合うことはとても難しくて、苦労することになるだろうということは察しがついた。
だけど、ここまで手を出したからには、サツキはきちんと付き合わなければならなかった。
「見つけたぞ、このガキ――――!」
どたどたどた、ようやくたどり着いたらしい大人たちをサツキは腕で制止する。
振り向きはしない。集中が途切れる。
「ねぇ、君。あたしと――バトルしてくれる?」
静やかに問う。
瞬間、警戒態勢だったピカチュウの表情が、その言葉を受けて意地が悪い笑みに変わる。
誰もその悪意を向き合って注意してくれなかったんだね。
「ミーちゃん、みずでっぽう!」
「まさか嬢ちゃん、捕まえるつもりか!?」
ピカチュウはすばしっこくみずでっぽうを避けて、一定の距離を崩さない。その身には微弱な電気を纏っているらしい。放たれた水に少しでも当たったらミーちゃんにも電気が伝わるということか。
電気タイプのピカチュウに対して、水タイプのミーちゃんは不利。それを考えているいい作戦だとサツキは思う。意地が悪いだけじゃない、多分かなり賢いのだ。
だけどねピカチュウ。タイプって変えられるんだよ、知ってた?
「ミーちゃん、ほごしょく! そしてこうそくスピン!」
下はむき出しの土。そこに馴染んだミーちゃんは地面タイプに変化する。地面に電気は通じない。ピカチュウに触れることはもう怖くない。
遠慮なく空を切るミーちゃんの早さはピカチュウの速度を上回る。その柔らかい腹を捉えてミーちゃんの鋭角な触手が抉る。
まるで漫画のように大げさに、ピカチュウの体が宙に浮く。
「サツキさん…………っ!?」
「ああ、見ていてね、オーカ」
どさっ、と落ちて痛みに動かないピカチュウに近づく。
大人たちに、追いついたオーカに、見せつけるように空のボールを見せる。
サツキたちをぐるりと囲む人々に向きあって、ボールが確かにあることを示す。
ぱっ、とボールを持つ手を広げて、落ちていくさまを見せつける。
抵抗しないピカチュウはあっさりと中に入る。
「ピカチュウが……」
「あんなに逃げ回っていたのに……」
あんぐりと口を開ける大人たちの視線の先で、揺れていたボールが動きを止める。
カチッ、と一つ、音がした。
「ピカチュウ、捕まえた」
中で眠るピカチュウを確かめて呟く。
視線を向けるとおののいたように大人たちが後ずさる。
それを受けてサツキは釘刺すように言う。
「もう、追いかけてこないでね」
+++
「サツキさん!」
「んー、なぁに?」
異様な雰囲気の大人たちが、散り散りになったあと。
ニビのはずれの砂地で、反抗的なピカチュウと交流を試みる彼女に、オーカは決死の思いで声をかける。
何度も何度も電撃で手を跳ねられながら、それでもなおピカチュウに触れようとするサツキの声はオーカの呼びかけに対して他人事のようなニュアンスだった。
それでも。言わずにはいられないと、オーカは一人で語りかける。
「なんで、そのピカチュウを捕まえようと思ったんですか?!」
「じゃあオーカはなんでピカチュウ連れてるの?」
「えっ」
思わぬ質問返しに後ずさる。
オーカの足元でしっぽを揺らす、小さな影。
すぐ目の前でサツキを弄んでいるピカチュウとはまた違う、少し無邪気そうな小さなピカチュウ。揺れるしっぽの先はハートのように丸くなっているのが、サツキのピカチュウとは違う場所。
「……間違えて捕まえたんです。そのピカチュウと」
「じゃ、オーカも捕まえるつもりだったんだ。なら聞く必要なんてなくない? ……いった、もー。さっきは抱き上げさせてくれたくせにー!」
ほとんどこっちを見ていなかったと思うのに。
オーカはぎょっとする。一体、あの騒動の中でいつこのピカチュウの存在に気付いて、かつオーカの意図に気付いたのだろう。恐ろしいほどの観察眼だと思う。
「僕が捕まえたかったのは、とりあえず逃げられないようにしたかっただけです。一通りお説教したら、また逃がすつもりで……。……そんな問題児の更生に、付き合ってられる程僕は暇じゃありません」
「んー、そっかー。まあそうだよねえ。痛い、ねぇ指かじらないでよ!」
「僕の話ちゃんと聞いてもらえますか!?」
だん! と地面に強く足を落とす。
そこでようやく、サツキがオーカの方を向いた。
浅葱色の瞳が、オーカの姿を捕らえる。
それを見てオーカは確信する。
――やっぱりこの人は強い。
「どうしてそのピカチュウを捕まえたんですか。リーグまであと二か月くらいしかない……そんな、言うことを聞くかわからないようなピカチュウ、足手まといになるだけじゃないですか」
「んー……。リーグを目標にしてたら、そう考えるのが普通なんだろうね」
困ったようにサツキが笑う。
その間もサツキにちょっかいを出し続けるピカチュウの頭を少し撫でて、静かにするようにとジェスチャーをした。不思議と、それにピカチュウが倣う。
「でもあたしの目的は君だからさ」
「……!」
ぬけぬけと言う、サツキにぐわっと血流が早くなるのを感じる。体温が上がり、頭に血が上る。
旅に出て、リーグを目指すというのに、このぬるさ。腹が立つ。
「それに、あのピカチュウ、あのままにしてたらどうなってたか、想像できる?」
「……」
「怖かったんだ。想像するの。“もしも”の先を見るの。あの男の人たちにこのピカチュウを任せるなんてできなかったし、あのまま森に置いていったらニビの人たちに迷惑がかかっちゃう……んだよね、多分。オーカもお弁当盗まれたって言ってたし。だから、誰かがピカチュウにいいことと悪いこと、教えてあげないとって思ったの。とにかく男の人たちにだけは渡したくなかったから、つい浚っちゃって。そこまで首をつっこんだら、あとは最後まで一緒にいないと無責任かなって。……別に、戦力とかそんなのどうでもいいんだ。この子にちゃんとわかってもらえたら。あたしはオーカと戦えればいいんだもん。時間が足りなくってもいいの」
まっすぐ、サツキが語る。
優しくてぬるくて、正しいけれど強くはなれない戯言を言う。
こんな相手と、戦うなんて冗談じゃない。
「さっきのバトル、尊敬したのに」
だから、つい。口から本音が漏れる。
言ってから後悔した。それでもそれでなにか変ってくれるならと思って続ける。
「容赦ない、無駄のないバトル。本当にきれいでした。地形の選択は選んだのが偶然なのかわかりませんが、もしもわざとここにしたなら僕は本当にあなたを尊敬したと思います! 電気タイプのピカチュウに対して、あなたの手持ちは水タイプのヒトデマンとゼニガメだけ。その相性の不利を、ヒトデマンのほごしょくで消してしまうなんて……とっさの判断でできることじゃありません。まして、あなたはあんな大勢に追われていたんだから! マサラで見たバトルはものすごく気持ち悪い違和感があったのに、そのピカチュウとのバトルはとてもストレートで綺麗で鮮やかだった! 僕はそんなあなたと戦いたいと思った! それなのに…………それなのにあなたは、まだそんなことを言うんですか!?」
“オーカと戦えればいい”じゃない。
“誰にも負けない”。
そんな気迫を持った相手でなければ、戦う意味がない。そんな低い目標しか持たない人間なんてどこにもいけない。そんな低い理由しか持ってない人間はリーグでは勝てない。
サツキに決勝戦まで来てほしい。
どうしても来てほしい。
だからそんな、低レベルな言葉を口にしないでほしかった。
「……ごめんね」
「――――ッ」
そんなオーカの思いは、通じなかったのか。
本当に申し訳なさそうに、サツキが謝る。
腹が立った。やっぱりこの人をライバルに仕立て上げようなんてことは無理だったのか。
まるで自分が侮辱されたような気分になる。どうして彼女に限定なんてしたんだろう。
こう言われている気分になるのだ。
“それでも君に勝つなんて簡単なんだよ”。
「やっぱりあなたはもったいない人だ」
言い捨てて、町の中心へと走る。
どうしようもない悔しさが胸の中で暴れまわる。本気にならない彼女のバトルを見ると、まるで自分が眼中にないのだと思い知らされてくる。
まだ会ったばかりかもしれない。父親たちの“過去”なんて子供には関係ないかもしれない。でもサツキをオーカの決勝戦の相手に指名したのはひとえに、そんな運命を少しだけ期待してしまったからだ。
だから、まるで一方通行な本気に苛立ってくる。一瞬でも彼女のバトルを尊敬した自分が嫌になる。
どうして彼女は本気になってくれないのだろう。
そんなに自分にはなにかが足りないのだろうか。
考えて、涙が出た。気がした。
+++
「今頃はニビにいるかしらね、サツキ」
『だと思うぜ? さすがにこっからニビに一日はかからないだろ』
カスミはテレビ電話に映るレッドに微笑みかける。
今頃はどこにいるだろうか。もうポケモンはゲットしただろうか。少しは強くなっただろうか。
娘の今を想像するだけで、なんだかとても胸が躍る。レッドではないが、やはり娘がポケモントレーナーとしての道を歩もうとしているのは、ジムリーダーとして嬉しいことだった。
サツキの洗濯物をたたみながら思う。もう、あと二か月はこの小さな服を洗濯することがないのは、寂しいかもしれない。
『四日もすればハナダに行くんじゃないか? まさか、あいつがジムで苦戦するとは思わないし』
「どうかしら。あそこ、観客いるでしょ」
『あー……』
ニビシティジムはまるでプロレスのような会場だ。そこはジム戦が開催されるたびに地元の人間が詰め寄って、チャレンジャー以上に観客がいるという少し珍しいタイプのジムなのだ。
それは、臆病な娘の苦手なものだった。
『……強く、なってくれたらいいんだけどなあ』
強くなってほしい。
それはバトルだけじゃない。心がだ。
カスミもレッドも、娘の臆病さをよく知っている。誰よりも弱いのに、取り繕うのも人一倍上手いせいで、あまり彼女の友達には知られていないが。
だから心配なのだ。上手くこの旅で成長できたらいいが。
「トキワの森で詰まってなきゃいいわねー」
『やめろよ、ありそう』
ははは、と二人で笑う。
娘はどうしているだろう。想像して話すだけでもこんなに楽しい。
早くハナダに来てほしい。たった三つしか離れていない町だけど、きっとそこまでの道のりでもたくさんの思い出を持ってきてくれるはずだ。
「そういえば――……は!?」
『? どうした?』
カスミはぎょっと声を上げる。
腕時計型のテレビに映されたレッドにも見えるように、玄関を映してやる。
畳んだ洗濯物を仕舞おうと、玄関脇の部屋へと来て。
恐ろしい物を見てしまった。
『あ、あ、あいつ――――!』
「ビーチサンダルで出かけたわね――――!?」
白い、小さなスニーカーが玄関に揃えて置いてある。
サツキがいつも履いていく、そのスニーカーがそこにある。
なんてことだ。二人は頭を抱えた。