海へは還らない
うんと大きくのびをして、サツキは朝日を拝む。まだ少しだけ冷たい五月の風を窓から取り入れ、それから少し身震いした。もう五月も後半となるけれど、朝はどうしてもちょっとだけ冷たい。梅雨を予感させるような、そんな突き放した冷たさだった。
サツキは夏が好きだ。泳げる季節はあまりに短くて、夏の前後は海が恋しくてたまらない。早く夏になればいいのに、そう思うのは決まって今日を迎えてからだ。
今日――サツキの誕生日。
どうして誕生日を境に海が恋しくなるのかはわからない。ただ誕生日が特別な日だからかもしれない。
あるいは、サツキが本当は魚なことを思い出す日なのかもしれない。あるべき場所に還りたくなる。雄大な母なる海に溶け込んで、還る日を待ちわびていた。
そんな、誕生日。
両親は仕事、ユリカは用事で遊べない。やることと言えば運動とバトルの慣らしくらいで、あの怒涛の旅が終わってからはとんと暇を弄んでいた。
朝ごはんのコーンフレークを流し込み終わってため息をつく。退屈だからそろそろ外に出ようか。そう思った頃だった。
ピーンポーン。
間の抜けたインターホンが一人の家に響く。宅配便かとカメラを覗くと、そこにいたのはカルミンだった。
「カルミン! 珍しい、家にまで来るなんて」
「よ! 誕生日おめでとう!」
まだ少し寒いのにもう半袖を来ている彼は、ぱっと明るい顔で手を上げる。ちょっと待ってて、と慌てて着替えて玄関に向かえば、去年の夏より少し背が伸びたカルミンがサイズのあまり合っていないズボンで立っていた。
「おはよう、わざわざ来てくれたんだ!」
「おう、ちゃんと覚えてたんだぜ。これから時間空いてる?」
「もちろん!」
急いでスニーカーを突っ掛けて外に出る。涼しいようなぬるいような風が二人の間を通っていく。
「ちょっと遠いんだけど、いい場所見つけたんだ」
「ポケモンに乗って行くの?」
「いや、……歩こう。旅は終わったんだから」
そう背中を向ける彼の後を歩く。
旅は終わった。去年の夏から秋までかけて、カントーを巡ってたくさんの感情をやりとりした旅は、あっという間に過ぎ去ってしまった。
あれから、元々住んでいる地域も離れているせいで旅をしていた頃よりもカルミンに会わなくなった。オーカも、メルも、会わない。友達ではなかった二人と会う理由は、ポケモンバトルを除くとあっさりとなくなってしまう。
だから二人は歩く必要があった。
出会うためには歩かなければならなかった。
+++
マサラタウンから歩いて三十分を過ぎた頃。日差しが上がりじわりと焼くような太陽の下、サツキが住んでいるのとは反対方向にたどり着いた。
「わぁ…………!」
民家も少ない、手入れの行き届いてない自然の先。
目の前に広がったのは一面の花畑だった。白から濃いピンクのグラデーションの絨毯。花びらがレースのように折り重なったその花は、サツキたちを迎えるようにそよそよと揺れる。
一歩前に踏み出すサツキの背を押すのは、温かな風。
「なにあげたらいいのか悩んでさ。歩いてるうちにここを見つけたんだ」
「すごい、綺麗……なんの花だろう?」
「ゴデチアって言うんだって」
「カルミン、詳しいんだね」
「え? あ、えーっと、院のおねえちゃんに聞いたんだ」
下手にごまかすカルミンにくすりと笑う。もしかしたらわざわざ探してくれたのかもしれない。
揺れる花たちに向き合って、やがてそれが凪いだ海に似ているなんて考える。今日海が恋しくなったのは、ここに来る予感だったのだろうか。
知らなかった、マサラタウンにこんなに綺麗な花畑があるだなんて。
「ありがとう、カルミン」
「ごめんな、こんな花しか見せれなくて」
「ううん、うれしい」
一歩彼との距離を詰めると、カルミンは照れたように笑う。触れそうで触れない肩の空間がなんだかもどかしかった。
旅の中では当たり前に握れた手が、旅が終わったとたんに少しだけ遠くなってしまって。
「ゴデチアは、春よさらばって意味の名前があるんだって」
「そうなの?」
「春の終わりを告げる花なんだ。もうすぐ夏が来る。そしたらさ」
力強く握られた手に、思わず彼の目を見る。
カルミンの目は花を映さず、サツキだけを捉えている。
「今度はもっと遠くに行こう。あの夏みたいに」
一緒に行けなかった場所がたくさんあるんだ。
それぞれの目的のため、一緒に行動はしても一緒に旅はできなかった。それを取り戻しに行こう。
胸がきゅうと締まる。海へ還りたがる心が、引き戻されていく。去年より大きくなって、ちょっと固くなった彼の手で。
「うん」
サツキは不思議な切なさに襲われながら、絞り出すように一言だけ返した。握り返した手はもうあの夏とは変わってしまっていた。
だからサツキたちは何度でもあの夏をなぞるんだろう。忘れないために。忘れさせないために。