Day1

ポケモンリーグが終わってから、二ヶ月が経った。

惜しくも入賞を逃したフェルメール――メルは、そのことにはなんの感慨も持たぬまま、その美貌を見て追ってくるストーカーやマスコミから逃げるようにイッシュ地方に行っていた。家出していた分、家族でゆっくり過ごすことも目的として。

マサラタウンによく似た田舎町ホワイトフォレスト。その一角にあるコテージを借りて、人目を避けるようにひっそりと二ヶ月を過ごした。父は仕事があるからすぐに帰ってしまったが、母と二人で穏やかに過ごす日常は旅のストレスから解放されて良いものだった。よほど環境がいいらしく、はじめの一週間を除いて熱を一度も出さなかったほどだ。

とはいえ、いつまでもいるわけにはいかない。父からリーグの騒動が収まったと聞いて、ついにメルは母と二ヶ月ぶりにマサラタウンの地を踏んだのだった。

「はー、やっと家に帰れるのねー」

「わたし、ずっとあそこでもよかったわ」

「そういうわけには行かないでしょ」

母に続いて、平穏の戻ったマサラタウンを歩いて行く。荷物を運んでくれるニドキングはどこかほっとしている様子だ。イッシュの空気が合わなかったらしい。

二ヶ月も経ってすっかり寒くなった中、寒村を歩き続けるとやがて家が見えてくる。田舎町には似合わない、妙に小綺麗な洒落た家。母の趣味なこの家は、ただでさえ目立つ一家なので余計に浮いて見えた。

長旅で疲れたと言いながら、母ががちゃりと鍵を回す。その時だった。

「……メルさん?」

「…………あ、……ああ」

幼い声に呼ばれて振り返ると、この寒い時期に麦わら帽子を被った少女がそこにいた。大きな釣り目を好意で煌めかせて、たたたと寄ってくる彼女はお久しぶりですと慇懃に言った。

見覚えは、ある。トキワの能力を利用したくてカケルに紹介したはずだ。ポケモンリーグでも戦った。そこまでは覚えているが、さて名前はなんだっただろう。他人に興味が薄いメルはいつもすぐに名前を忘れてしまう。大抵、他人に関わっていい結果になった覚えがないのもあった。必要のない人間を覚えている必要がないので忘れてしまうのは当然なのだが――しかし、一応彼女は関わりも深かったはずなので忘れたと言うのも、と悩む。

「あら、オーカちゃん」

「あ、こんにちは。旅行からお帰りですか」

「そうなのよ、ちょっと避難をね」

ああそうだ、オーカ。

母の言った名前に救われる。これはオーカだった。確か言葉を話すヤドキングを持っている。そこまで思い出すとすっきりとした気持ちになって、後はおしゃべりな母に任せて布団で寝ようとした。しかし、母に捕まってしまって家に入ることを阻まれてしまう。

「それで、オーカちゃんはお散歩?」

「あ、いえ。メルさんに伝えたいことがありまして。でもしばらくいらっしゃらなかったから……」

「……わたしに?」

オーカは緊張した様子でたどたどしく話す。顔を赤く染めて、メルを見ては照れて伏せる。長旅の後で疲れているから手短にしてほしいのだが、母がにこにことオーカを眺めていたので余計なことを言うのはやめておいた。怒られるのは面倒だ。

そんなオーカの百面相を眺めていると、ようやく彼女は話始める。

「あの、以前弟さんはエンジュにいるんじゃないかって話をしたと思うんです。でも、僕にはそれしかわからないから……僕の従兄なら、メルさんの力になってくれるんじゃないかって」

「従兄?」

「マサミ兄さんって言う、あの、すごい人なんですよ。パソコンとかに詳しくて、知り合いも多くって……」

余計な言葉の多いオーカの言葉を整理するとこうだ。情報に長けたその男ならば、弟のアントワープ――アニーの居場所を特定できるのではないかと。様々な人脈を持つその男の知り合いにアニーを見たことがある人間がいる可能性もある。なにより、ポケモン預かりシステムの管理を任せられているその男は、その気になれば直接アニーの情報に接触することができるはずだと。

そんなに簡単に、見ず知らずの自分のために動いてくれるものだろうかとメルは頭を捻る。オーカは兄さんは優しいからと言うが、この善性に守られて育ったような子の言うことを鵜呑みにはしがたい。メルの美貌に目が眩んで協力をするような男ならば近付くのも嫌だし、美貌に興味を持たない男ならば協力もしないだろう。

オーカの知り合いとはいえ、メルが男性に近付くのはかなりのリスクを伴う。彼女の誘いにのるかそるか、メルは眉根を寄せた。

「ど、どうでしょうか」

「いいんじゃない、行っても」

「お母さん?」

「マサミくんなら、お母さんも知ってる子だし。実際とても頼りになるはずよ、メル。大丈夫、変なことをするような子じゃないわ」

悩んでいるところで、母の後押しが来る。

探しに行くのも反対をしていた母が、どういう風の吹き回しだろう。しかし、母が言うなら間違いはないか。何故オーカの従兄を母が知っているのかは不思議だが、今は関係のないことだ。

「……わかった。じゃあ、行ってみるわ」

「本当ですか!」

ぱぁっと笑うオーカが、嬉しそうに日程を決めて去って行く。三日後、ハナダの岬に行くそうだ。オーカと一緒ならば大きなことにはなるまい、とメルは祈る。

「いい結果になるといいわね」

「そもそもなんでお母さんは居場所を知らないの?」

「内緒よ」

オーカを見送って、今度こそ家の中に入る。久々の我が家は少し埃っぽい匂いがした。

+++

アニーがいなくなったのは、メルがまだ四歳の頃。弟についての記憶はほとんどないが、一つだけ、強烈に覚えていることがある。

黒い服にRの赤文字を縫い付けた服を着た男たちだ。物騒な雰囲気を感じたその男たちに、母はアニーを託した。祖父は大きな会社の社長で、男たちはその部下だ。部下にアニーは連れ去られてしまった。メルは事情がよくわからなくて、泣きながらアニーの名前を叫んでいたことだけは覚えている。

メルの中のアニーの記憶は、本当にそれだけだ。アルバムをめくると、いつも顔がそっくりなかわいらしい男の子が、メルと寄り添って写っている。その記憶しか、メルにはない。だからこそ、アニーが今どうしているのかが気になっていた。メルだけがなにも教えられていない状況に腹を立てて、アニーに会いたいと意固地になっているとも言う。

両親は、なにかを隠している。

アニーは重い病気で、両親では治してあげられないから祖父に預けられたと聞いている。しかしそれなら、両親さえ居場所を知らないのは不自然だ。そもそも、経済支援だけでもよかったのではないか。そんな違和感を晴らしたい。メルが弟を探す理由の最たるものはそこにある。

両親はメルのことを大切にしている。隠されているのも相応の理由がある。それはわかっていても――弟のことだけは、譲れないのだ。

「メルさん、ここです」

斯くして、メルはオーカに連れられてハナダの岬までやってきた。リザードンに乗って三十分ほどの距離にあるその場所は閑散としている。海は確かに綺麗だがそれだけで、ぽつんと立ったその一軒家は寂しげに聳えていた。

ここに住む男が、アニーを見つける手助けになるのかどうか。不安ではあったが、話してみないことにはどうにもならない。オーカがインターホンを押すのを見守っていると、やがてがちゃりと扉が開いた。

「はい、いらっしゃい――オーカ、その子は?」

「この間話したメルさん。あのね、兄さんにお願いしたいことがあるの」

中から出てきたのは、痩身長躯の美貌の男。怜悧な美貌で人なつっこく微笑む男は、メルに目を留めると一瞬、キッと殺意でもあるような鋭い目をする。

――なんだ?

メルの美貌に一瞬にして溶けるような男は数多く見てきたが、この反応は初めてだ。すぐにオーカに目を戻した男はまた人なつっこい微笑みをしている。気のせいか、とも思うがそれにしてははっきりと殺意を感じた。

――この男は本当に頼ってもいいのか?

手を出されても、手持ちのポケモンたちは間違いなくメルを守ってくれる。その信頼はあれど、危害はないに越したことはない。一歩距離を取って二人のやりとりを眺める。オーカは何も気付いていない様子だった。相変わらず鈍いらしい。

「それで、メルさんの弟さんを探すの、兄さんならできないかなって……」

「うーん、それだけじゃなんとも言えんかなぁ。そもそも、ご両親に聞いたらええんちゃう?」

「ご両親も知らないんだって。そうですよね、メルさん」

「……ええ」

急に水を向けられて、メルはとりあえず返事をする。

オーカがいる間は、この男は何もして来なさそうだ。しかしあまり深く話したくはないな、と判断したところで、男はこう語る。

「せやなぁ。今日はまだ仕事が残ってるから、今度メルちゃん? 一人で来てくれる?」

「えっ?」

「詳しい話聞くなら、一人の方が都合ええかなと思うんやけど」

「オーカが一緒では、いけないの?」

困惑している中で、言外に男がオーカのいるところで話したくないのだと悟る。男の敵意が一人でいるときに向けられるのは嫌だ、そんな面倒なことにはなりたくない。しかし現在彼以外に頼れる人はおらず、そもそもこの男が頼れるかどうかもわからないわけで。

――いや、大丈夫。この男はバトルはできないと聞いている。それなら、ニドキングさえいればどうにでもなるはずだ。

身の安全を考えて、それから一か八かの心持ちでメルは頷く。

「……わかった。いつ来ればいいの?」

覚悟を決めたメルに、男が日時を指定する。

オーカはなにを疑うこともなく、いい結果になるといいですねとのんきに笑っていた。

+++

後日。今度は一人で男の家を訪れる。先日と同じようにインターホンを押せば、固い男の声が聞こえてくる。警戒心を隠さずに名前を名乗れば、やがて扉はゆっくりと開かれた。

長身痩躯の美貌の男。先日見たときと同じように、身なりに気を配らないラフな格好をした男は、殺意を隠すことなくメルを視界に入れた。

「……入れ」

低く命令される。いつでもボールに触れるように、手を腰に回して中へと入る。一足だけ置かれた玄関に靴を揃えて上がると、生活感のないリビングへと通された。使った形跡のろくにないキッチン、物のない机の上、掃除の行き届いていない埃っぽい空気。空気の悪さにメルは敏感に反応する。

なんだろう、この家は。こんなにも広いのに、この男以外が住んでいる気配がない。

ポケモンの鳴き声だけは聞こえる家の中で、男はどかりと座ると立ったままのメルを睨め上げる。

「それで、なんのつもりや」

「なんの?」

「オーカに取り入ってまで俺に接触した理由はなんや」

男の脈絡のない問いに困惑する。男と会ったのはこれが初めてだし、そもそもオーカが紹介をしてくれたはずだ。しかし男は、初めに話した理由を信じていないらしく、ありもしない裏を取ろうとしにきている。

――やっぱりあいつの印象は信用できないな。

優しい人だとオーカは言った。しかし、母は優秀な人間だとは言えど人格的には気難しい子だと話していた。大方、オーカには隠しているのだろうと察するのは容易なことだった。向けられた敵意と母の言うことが正しかったようだ。

手の届かない距離を保ちながら、メルは男に気圧されることなく答える。

「取り入ってなんかいないわ。だってあなたとは初対面よ」

「はぁ? お前、何度も会ってるやんけ」

「あなたのことなんて知らないわ」

はっきりとメルが答えると、男は敵意を怪訝な表情に変える。間違いなく、メルは男と初対面のはずだ。顔も覚えていないし、名前も聞き覚えがない。母は知っているらしいが、そもそも何故母がこの男を知っているのかも心当たりがない。

そんなメルの態度を信用したのか、男は少しだけ敵意を薄れさせる。

「お前、何年か前にオーキド研究所に通ってたやろ」

「……どうしてそれを?」

「お前のお母さんと俺がポケモン図鑑を作っている間、お前は一人で遊んでたはずや。……お前はなにも覚えてないみたいやな、フェルメール」

男が名前を呼ぶのに、ふむ、と小首を傾げる。

旅に出るよりも前の話だ。母に連れられてオーキド研究所に通っていたことがある。母が博士に頼まれた仕事をしている間、留守番するわけにもいかないからと研究所でポケモンと遊んでいたのだ。その記憶はある。それで母と博士が知り合いなことを覚えていたから、メルは博士に頼ろうとしていたのだ。

そこにこの男も居たらしい。しかし言われても思い出せず、そう、としか返せなかった。覚えていないのなら、男は関わりがなかったか、あるいは無害だったかのどちらかだろう。ならばそこまで警戒する必要もないか。

「あなたがいたなんて知らなかったわ」

「……一応、リーグでも会ってるんやけどな、観戦席で」

「そう。覚えてないわ」

自分の出番が終わってから観戦席で母に捕まっていたが、知らない大人がたくさんいたことしか覚えていない。その中に彼がいたとしても、あの時は母に捕まって不機嫌だったからおそらく顔も見てないことだろう。

そんなメルの興味のなさに、男はオーカに取り入ったわけではないことを合点したらしい。とりあえず話は聞いてやると、向かいの席に座ることを許される。対応に不満はあったが、こちらも警戒しているのは同じだ。大人しく従う。

「それで、弟の居場所を探して欲しい、やったっけ?」

「ええ。おじいちゃんのところにいるはずなんだけど、おじいちゃんがどこにいるのか知らないの」

「親に聞けばええやんけ」

「教えてくれないの。教えられないのかわからないけれど。でも、探すことは許してくれたわ。だから探したいの」

「俺は探偵とちゃうねんけどなぁ……」

「あなたってすごいんでしょう? オーカから聞いたわ。なんでもいいの、手がかりになればなんでも」

男は呆れた様子で目を眇める。それから少し考えるようにして、百万円、とおもむろに呟いた。

「調べてやってもいい。料金は百万円」

「ひゃ、ひゃく」

「オーカの知り合いでなきゃ断っとるんや。俺も暇じゃない、百万円、払えないなら俺は受けない」

「そ、そんな額払えないわ」

言い渡された金額に、さぁっと血の気が引いてくる。なんて男だろう、子供にそんな法外な請求をしてくるだなんて。

これはもう受ける気はないだろう。メルはやや落胆をしながら、仕方がないと首を振る。過去にもらった貢ぎ物はもう売ってジム巡りの旅費に使ってしまっている。自分の力ではどうにもならなかった。

「わかった……」

「あるいは」

「?」

「忙しくて手が回らんでな。家政婦として働くなら、雇わんでもない」

帰ろう、と思ったところで意外な提案をされる。てっきり断られているのだと思っていた。

男の提案はこうだ。部屋の掃除、洗濯、食器の片付け、それからポケモンたちの世話をしてほしいと。給与全てを男への報酬に使う必要はなく、月々払える範囲で構わない。ただし、メルが辞めると言った時点で調査は中止、後日それまでにかかった費用は払うこと、と。

「オーカの紹介じゃ断るわけにもいかん。が、報酬については譲歩しない。契約を結ぶなら調べてやる」

想像以上の、譲歩。初めの敵意からは想像も出来ないほどの条件に面食らう。それほどまでにオーカのことを大切にしているのかと驚きながら、飲めない条件ではないと考えた。

――家事なんてしたこともないけど。

弟を見つけるためならば、どんな藁にでもすがると決めていた。

「やるわ」

メルが宣言をすると、男はおもむろに立ち上がって、別室から二枚の紙を持ってくる。差し出されたのは労働契約書と書かれた、同じ紙だ。よく読むようにと指示される。

「基本は午後一時から夕方四時までの三時間。働き次第では仕事量や時給は増える。交通費がかかるなら申請しろ。仕事は来週から、俺が留守の日には仕事はない。希望の曜日は?」

「いつでもいいわ。ただ初めのうちは一日置きがいい」

「ならそうしよう。来週の月曜日から一日置き。お前の親には俺から連絡する。なにか質問は?」

「お願いが一つ」

淡々と進められる契約に、メルは反論もなく了承する。体力がないのに連続では働けないだろうと進言したのが思ったよりもすんなり通ったから、ついでにもう一つ付け加えた。

「わたしになにかしようとした時は、ポケモンたちが絶対にあなたをただでは済まさないわ」

「こっちの台詞や。妙な動き一つでもしてみろ、社会的に殺したるぞ」

鋭利な目が、さらに釣り上がる。

その殺意に晒されながら、メルは安心感を抱いていた。彼女に寄ってくる人間というのは大抵、メルの美貌に魅せられてなにをするかわからないような者が多かった。そんな中で平静を保ち、さらに敵意さえ向けてくるような誠実な人間は、一番信用に足るのだ。

この男が役に立ってくれるかはまだわからない。しかし、少なくとも信用はしてもよさそうだと好感さえ湧く。

「わたしの名前はフェルメール。メルでいいわ」

「マサミや。お前の主の名前、よく覚えておけ」

斯くして、メルはマサミという男の元で奇妙なアルバイトをすることとなる。

+++

「ただいま」

「おかえり、どうだった?」

「働くことになったわ」

「マサミくんからも聞いてるけど、どうしてそうなったの?」

夕方、いい匂いのする家に帰ってきて母に報告すると、頭でも痛そうな顔をされる。お構いなしに顛末を話せば、母は大きなため息をついた。

「お母さんがお金払っておこうか?」

「いいわ、だってわたしのわがままだもの。それに、悪い人じゃなさそうよ」

「それは知ってるけどね」

これまで箱入りで育ってきた娘が、そんなアルバイトの約束をしてきているのはさすがの母も想定外だったのだろう。いつも何もかも見通しているような母が困っているのがおかしくて、機嫌よく契約書を渡す。母にも記入してもらうところがあった。

マサミくんが、まさかねぇ。なんて溢しながらもサインしてくれるのを眺めながら、メルは甘えた声でお願いする。

「お母さん、掃除のやり方を教えてくれる?」

「……お仕事だから仕方ないけど、体を悪くするようならすぐにお母さんがマサミくんと話すからね」

「大丈夫よ、マスクをするわ」

「そんなの意味がない子が何を言っているの」

メルは体が酷く弱い。だからあの埃だらけの家の掃除などすれば、すぐにでも倒れてしまうだろう。しかし今まで母に守られるあまり一切やらせてもらえなかったことが出来るのは、それなりに楽しみでもあった。