シオンタウン
クチバシティの川沿いから、やや遠回りして、シオンタウン。
七月も下旬に差し掛かった猛暑の日射しは、黒い日傘でも遮れきれず、少女の透き通るような肌を熱していく。
臙脂色の髪、日焼けを知らない白い肌、全てを見通す銀の大きな目。
この世の可愛らしさだけを詰め込んだようなその可愛らしい少女は、シオンの地に立とうとしている。
普通ならイワヤマトンネルを通って行くところを、彼女はわざわざ遠回りしてここにいる。体の弱い彼女は、土埃だけでも熱を出すことがあるからだった。
そのおかげでやや時間はかかったが、彼女の体調は良好だった。
今日はこのままシオンで休み、明日にはタマムシに行くつもりだ。
何度か体調も崩したが、一ヶ月でジムバッジも四個集められたら、順調と言える。
特に大きな事件に巻き込まれることもない。ポケモンたちががんばってくれているおかげだった。
「さ……シオンに着くぞ。タマムシまで行けば折り返しだ……!」
側に従えたニドリーノに声をかけ、いざ、少女はシオンの地へと足を踏み込んだ。
瞬間。
「……!?」
どさりと足から力が抜けていき、思わず手を地につける。
急な体調の変化に、慣れている少女も戸惑う。体調は万全だった、断言できたはずだ。それなのに、今少女は全ての力を奪われている。
体の力が抜け、皮膚が熱を逃がそうと開いていくのを感じる。呼吸は息苦しさにどんどん早くなり過呼吸のようにもなっていく。
うまく息ができない。
まるで高度の高いところにでもいるような酸素の薄さだ。
だがそんなわけはない。ここだけがこんなに薄いわけがない。
ほんの一瞬前までなんともなかったのだ。それなのになぜ、一歩入り込んだだけで。
やがて、少女の体が水平へと近づいていく。
意識を手放そうと、体がしていく。
「なんなの……この町は……!」
声を絞り出した瞬間、少女の体に限界が来た。
ぷっつりと意識の閉ざされた体は地面へとあっけなく投げ出される。
その隣でニドリーノは、じっと町を睨みつけていた。
+++
「んーっ、今日もいい運動したーっ」
サツキは大きくのびをする。
たった今、トレーニングを終えてポケモンセンターへと戻ってきたところだった。
サツキは数日ほど、シオンタウンで過ごしている。
観光と、タマムシシティへ行く前の練習も兼ねて。
ここシオンタウンには大きなラジオ塔がある。この町のシンボルだ。
その中は自由に見学できるところもあり、もの珍しさに寄ったのだ。あまりテレビやラジオは聞く方でないが。
それに、ここは空気が澄んでいて、運動するのが気持ちいい。空気の綺麗さや穏やかさはマサラタウンにも匹敵するかもしれない。
「今日はメーちゃんも進化したし、充実したな~」
サツキの足下の、少しだけ大きくなったゼニガメ――ではなく、カメールのメーちゃんがうれしそうに笑顔で見上げてくる。
今日の練習中、進化したのだ。
水色だった肌は浅い青色へと代わり、水流を模したしっぽと羽のような耳が付いた可愛らしい姿へと変わった。
進化したとは言え赤ん坊だからか、図鑑に載っている身長よりはまだまだ小さいが。それでもゼニガメのときより背も伸びた。
ぬいぐるみから一歳くらいの赤ちゃんくらいの大きさになったのだから、十分な成長である。
「さ、みんな回復してもらおっか。ジョーイさん、お願いします」
「はい、お預かりします。……ねぇ、あなたは体調が悪いとか、ない?」
「? ないですよ」
一日の終わりに、手持ちを診てもらおうと預けると、唐突にそんなことを聞かれる。
体は至って健康だ。少し筋肉痛があるくらいで。
顔色でも悪く見えたのだろうか。
「どうしてですか?」
「あ、ううん、大丈夫ならいいの。……ここ二、三日で体を壊す子が増えてるみたいでね。今日も女の子がポケモンに運ばれてきたのよ……」
「ポケモンがじゃなくて、女の子が?」
「そう。まだ目が覚めてないんだけど、体には異変がなくって……まぁそういうわけだから、ちょっとでも具合が悪くなったら、教えてね」
「……はぁい」
運び込まれるくらいに重症なのに、異変はない。
不思議なことである。
サツキは頭を捻りながら、手持ちが戻ってくるのを待つため待合室のソファに座る。
ここに来て感じたことなんて、空気が綺麗なわりに重いと思ったくらいである。それも、多分酸素が濃いせいだろうと思ったサツキには、少し検討がつかない。
「なんか悪いことでもあるのかなー」
「……この町は呪われているの」
「ぅひえっ!?」
ぬるり、背後から話しかけてきた女性にサツキは飛び退く。
なんでもない、老女。
ただちょっと、目がイってる。
「この町は呪われているの……。三十年ほど前、ここにはポケモンタワーという、ポケモンのお墓を奉るための塔があったわ。それを潰して建てたのが、あのラジオ塔……わたしは反対したのよ。墓を潰してあんなものを建てるだなんて。だけど建ってしまったわ。それから、三十年……きっと、とうとう墓を潰されたポケモンたちの恨みが飽和状態になったのだわ。この町は呪われているの、ポケモンたちに……積もり積もった怨念に……この町は呪われているわ、今に子供たちから始まって全員が謎の病にかかって死んでいくのよーッ!!」
ケケケケケケケケ!!!!
ケケケケケケケケ!!!!
「……………………」
老女が、去っていく。
奇妙な笑い声を上げて。
残されたのは、サツキ一人。
あたりに利用客はおらず、助けを求めて見たカウンターにジョーイさんはいない。
たった一人。
ひとりぼっちで、老女のけたたましい笑い声を聞く。
「…………………………」
――嘘だよね?
+++
ぞっとしない気分で、サツキは鬱々とポケモンセンターのロビーにいる。
時刻は八時。
もう風呂にも入って、寝る準備は済ませてある。だが部屋に戻る気になれなかった。
夕時に老女に聞いた話が頭からこびりついて離れないのだ。ただの怖い話でも苦手なのに、どことなく信憑性のありそうな話を聞いてしまってはもう一人でいられない。
ロビーで、ポケモンたちを出したまま、サツキはぽつんと膝を抱える。周りに利用者は少ない。
あの老女の話はシオンに広まっているようで、ポケモンセンターの利用者も少なくなっているらしかった。
原因不明の体調不良を訴える子供が増えたせいか、たしかに昼間も子供が少なかった。
この綺麗な空気が、どことなく重いせいなのだろうか。
あんなの嘘、と思いたいのに思い切れない。
サツキは怖い話は嫌いなのだ。
「はぁ……これじゃ眠れないよ……。……あれ」
そんな人の少ないロビーに、ぺたり、ぺたりと足音が響く。
小さな金髪の女の子。バタフリーのプリントがされたパジャマに麦わら帽子を被って、靴は履いていない。
そんな奇妙な服装の、八歳くらいの女の子。
「オーカ? どうしたのそんな格好で……」
「うるさい……」
「えっ?」
オーカは頭を抱えて、なにかぶつぶつと言いながらゆらゆらと出口へと向かっていく。
「そんなに呼ばなくても、ちゃんと行くから……!」
「お、オーカ、どうしたの? なにか変だよ……!?」
サツキの声は聞こえないらしい、宙を見てよくわからないことをつぶやいている。
うるさい。
すぐにいく。
そんなに呼ばないで。
聞こえてるから。
ずっとそんなことを呟いて、とうとうその小さな背中が自動ドアの向こうへと行ってしまう。
「オーカ……」
追うか、悩んで立ちすくむ。
あんな小さな子を夜道に放り出せるわけがない。なにより様子がおかしかった。
思う。思うのだが。
――この町は呪われているの。
あの言葉が蘇ってくる。
「…………」
そろり、椅子に座ってしまう。
今から追いかけても、オーカの向かった先はわからない。もしかしたらすぐに帰ってくるかもしれないし、一応ジョーイさんには伝えて、待っていたらいいかもしれない。
自動ドアの向こう、夜の闇がサツキを責める。
それから目をそらして、サツキは机に顔を伏せた。
+++
頭がかち割れそうだった。
“さみしい”だけが流れ込んできて、執拗に自分を呼んでくる。
それと一緒に、映像もちらちらと見えてうっとうしかった。
どこかの森の奥深く。ゴースやゴースト、ゲンガーたちが楽しそうに笑っている。
平穏なポケモンたちの日常。時々訪れる旅人にかわいらしいいたずらをしかけたり、友達と遊んだり、喧嘩したり、時には恋をしたり。
人と変わらないその風景。それが一瞬で黒に覆い尽くされる。
それが人であることに気付くのは時間がかかった。
彼らの後ろ姿を見ながら、仲間たちがいないことに気付く。
ひとりぼっちに、なってしまったことに気付いたときには、もう遅かった。
取り戻そうにもどこにいるかもわからない。
なにより子供の自分になにができるのかもわからない。
だから、ただ寂しい、寂しい、寂しいと泣いて泣いて鳴いて――――。
泣いて、泣いて、それでは足りなくなったから、仲間を作ろうと考えた。
自分と同じ種族がいる場所を一生懸命探した。廃工場、洞窟の奥……。旅をするのは怖かった。だけど独りはもっと怖くてがんばって探した。
それでも、どこに行っても、拒絶された。
それが悲しくて悲しくて、仲間になってもらえるように一生懸命お話した。そうしたら仲間になってくれて本当に嬉しくて――。
つかの間の幸せの中、男が二人乗り込んで来て、やっぱり自分を追い払う。
どうして? どうして?
ただ僕は寂しくて、友達が欲しいだけなのに、どうして怒られないといけないの!?
悪いのはあのときの男の人たちで、僕はなにも悪くないのに!
二人の男の、小さい方が叫ぶ。
『友達ってのは、仲間ってのは、自分で相手を思いやれて、相手が自分を思いやってくれて初めてなれるものなんだ! それがわからないお前に仲間なんかできるもんか!』
僕をわかろうとしてくれなかったのはみんなの方だよ!
それでもその言葉に、抵抗する気がどうしてかわかなくて。気付けば無人発電所は追い出されていた。
そのまま流れて、流れて、僕はここにいる。
寂しい……。
友達が欲しい。仲間が欲しい。もう独りは嫌なんだ、どうして誰もわかってくれないの?
お願いだよ、こっちに来てよ。
寂しいよ。寂しいよ寂しいよ。こんなに言ってるのにどうして誰もわかろうとしてくれないんだよぉっ!!
頭がかち割れそうだった。
これはどっちの感情だっけ。
+++
オーカが出ていってから、三十分が経った。
一向に戻ってくる気配はない。
「……どこに、行ったんだろう」
心配と不安で、サツキはオーカの身を案じる。やっぱりすぐに追うべきだった。
どうして自分はこうも臆病なんだろう。座り込んで落ち込むばかりで、オーカの行き先は想像付かない。
――この町は呪われているの。
――ポケモンタワーを潰したから。
――そこにラジオ塔を建てたから……――。
「……――――っ!!」
老女の言葉を思い出す。
ラジオ塔だ。根拠はないが、それしかない。
シオンタウンは小さな町だ。その中で心霊的なものがあるならそこにしかない。オーカは、ラジオ塔でシオンを呪うなにかに呼ばれていったんじゃないか。
考えて、恐ろしくなって、頭を抱える。
でもそれ以外に思いつかない。
「……………………どうしよう……」
どくどくどく……喧しく心臓が鳴り始める。
怖いものは、嫌いだ。夜も、お化けも、嫌いだ。
だけど、小さな女の子が様子もおかしいままに外へと行ってしまった。大人に話してもあまり信じてもらえなかった。だったら、なにかあったときに助けられるのは自分しかいない。
サツキは逡巡する。して、隣にいる幼馴染みに顔を向ける。
「ミーちゃん……」
幼なじみ、スターミーと見つめあう。
大丈夫と、幼なじみは力強く頷いて、一緒に行こうと笑った。
「……うん、行こう」
それに勇気を貰って立ち上がる。
怖い怖いと言ってたってしかたない。オーカはそれよりもっと怖い目に遭っているかもしれない。
それを見捨てて、なにがリーグで戦おうだ。
ライバルになるなら、絶対にここで怯んじゃだめだ。
サツキは年上なのだから。
「ピーちゃんも、一緒に来て。もう暗いから、夜道を照らして」
訓練で眠くなってきていたピカチュウが、不機嫌に見上げてくる。
そして外を見て、もっと不機嫌になる。嫌そうに抗議するピーちゃんの体を抱いて、サツキは説き伏せる。
「お願いピーちゃん。オーカが危ないかもしれない。怖いの……でも行かなきゃ。一緒に来て、力を貸して」
ぶつくさ言う鳴き声は聞こえるが、それを境に抵抗はやめる。
付き合っていくうちに、ピーちゃんがサツキと同じくらい臆病で、それ以上に強がりなことは気付けてきた。だからその体を離さないように、サツキはお願いするのだ。
「……行こう」
+++
夜のラジオ塔は、不気味にそびえ立つ鉄の巨人のようだ。
電気は消えている。入り口には『何者かの妨害によってラジオの放送ができないため、問題解決まで閉鎖する』旨の張り紙がしてある。
漢字が難しくて断言はできないが、多分そういう意味あいのものだと思う。
やはり、ここにはなにかがいて、オーカを呼んだんだろう。
実際、誰かが扉を開けた跡も残っている。
「……ラジオ塔の幽霊、か……」
気が重い。
ピーちゃんと抱き合って、ミーちゃんと寄り添って、その入り口を見つめる。
大きく深呼吸をして、意を決して自動で開かない自動ドアを、ずるずるとこじ開けて中に入る。中には誰もいない、無機質な暗闇が広がっている。
「オーカー……どこー……?」
おそるおそる、声を出してあの小さな麦わら帽子の女の子を探す。その呟きは暗闇へ吸い込まれて帰ってこない。
無音。
しくしくと恐怖がサツキを取り囲んでいく。オーカがここにいなかったらどうしよう。
「……上、かなあ……。……それにしても、この臭いなんだろう」
階段を探しながら、サツキは口元を覆う。
濃く煮詰めたアンモニアのような臭いがラジオ塔には充満していた。機械ばかりがあるこの場所には不似合いなその臭いが、ここの臭いでないことはわかる。
なにかがいるのは、間違いがなさそうだ。
不審に思いながら、二階、三階、と登っていく。どこにもオーカは見つからないが、臭いはどんどんと濃くなって行く。
臭いに伴って、黒い霧も濃くなっていく。
近づいて行っている。確信を強く、サツキはまた上へ登る。
そうして、四階まで登ったところで。
「……誰か、いる……?」
霧の向こうに人影が見える。
小さな人影だ。あれがオーカだと瞬間に思う。
ピーちゃんを床に下ろし、近寄ろうとするも霧に阻まれて走っても走っても近づけない。そこの空間だけが永遠に続いているような錯覚に、サツキは立ち止まって見る。
触ってもなにかがあるわけではない。だが確実に、向こうへの道が隔たれている不思議な感覚に包まれていた。
「ミーちゃん、オーカをサイコキネシスで連れてこれる?」
自分が行けないなら技はどうだ。試してみてもらうも、どうも駄目らしい。
やはり本物の幽霊なのか? だとしたらオーカはどうなるのか?
「オーカ、あたし、サツキだよ! 大丈夫なら返事して!」
オーカは微動だに動かず、無言のまま立ち尽くしている。
あれは本当にオーカだろうか。ただオーカと同じくらいの背丈の子供であることは見て取れるのに、顔が霧に隠されて見えない。
段々不安になってくる。それはポケモンたちも同じなようで、ピーちゃんが不安げに足へと寄り添ってきた。
ミーちゃんも不気味そうに霧の向こうを見ている。
せめてあれが、オーカだと確信できたらもう少し安心できるのに。
実は幽霊でした、なんて嫌だ。
「……オーちゃん……」
霧を取り払うなら。ひこうタイプのオニドリルを見て、サツキは悩む。
オーちゃんはバトルが大好きで、一番に戦いにつっこんで行くし、タフだから瀕死直前になっても気絶するまで戦おうとするような戦闘狂だ。
バトルでは全力で出し切られる技が頼りになるが、逆に威力のコントロールを苦手にしている面もあった。
ラジオ塔は機材があちこちにあるデリケートな場所。そんなところに、オーちゃんを出していいものか。
「……オーちゃん、この霧を払ってほしいの。でも周りを傷つけたりしたら絶対に駄目……なんだけど。緩く“きりばらい”……できるかな?」
任せろ、やってやるから出せ、と言わんばかりにオーちゃんがボールを揺らす。その意気込みが怖いのだとはきっと彼にはわかるまい。
不安に思いながら、この霧をどうにかしなければとオーちゃんを場に出す。
オーちゃんが霧に向かって羽を動かすと、ゆっくり霧が回りはじめ、次に刀で切られたかのように霧に切れ込みが入る。
ばらばらばら、と切られた霧は霧散していき、慌ててサツキが開けた窓へと消えていく。
「オーカ……」
そうして場に残されたのは、だらりと四肢を放り投げたまま、太陽が月に隠されたような形の霧に囚われ浮いている小さな女の子だった。
バタフリー柄のパジャマに裸足で、いつも被っている麦わら帽子は床に落ちている。その中に隠されていた髪は、不思議に跳ねた癖毛だ。幼い顔は、苦しげに歪んでいる。
「オーカ、…………っ!!」
おおおおぉぉぉぉぉおおおお……!!
一歩、オーカの方向に踏みだそうとした瞬間、霧から異様な圧力がかかる。
執念だと、直感で思った。
お化けだ。やっぱり怒ってるんだ、お墓を潰してここを建てたから。
でもなんで、何十年も経ってから。
考えても、サツキにはわからない。だが霧から強い感情が伝わってくる気がした。だとしたらオーカが捕まっているのは、生け贄、だろうか。
助けなきゃ。
一瞬恐怖に固まりかけた意識を動かして、ピーちゃんとミーちゃん、オーちゃんを側に呼ぶ。
「ミーちゃん、もう一回サイコキネシス!」
お化けに効くかはわからないが、とにかくオーカを戻せればいい。
そう思って、指示をしてみるも霧はオーカを離す気はないらしい。オーカの体が若干こちらに動いた気がしただけで、依然霧に囚われたままだ。
「あ、あの……ポケモンたちのお墓を潰して、ラジオ塔を作ったことを怒っているの? それは、それは……悪いことかもって、あたしも思うよ。だけどその子はシオンの子じゃないの。お願い、離してあげてほしい」
おずおずと説得をしかけてみるも無駄に終わる。
しかもゆっくり、霧は上の階へ向かっている。上に行って上に行って、どうするつもりだろう。
「おねがい、オーカを離して……っ!」
焦って腕を伸ばし、霧から発される警告音にも怯まずオーカの手を掴んでひっぱる。
思いの外軽々とオーカの体がサツキに飛び込んできて拍子抜けするも、落とさないように抱き抱えてなんとか霧から距離を取った。
「オーカ……っ」
取り戻したオーカの顔色は悪い。
体はこの真夏に対していやに冷たく、その触感はゴムのように精気がない。熱を出しているような息の荒さなのに、体から体温が抜け落ちたように冷たいのが不気味だった。
一体、あの霧はなんなのか。
そんな恐怖に、サツキはオーカを取り戻した反動で座り込んでしまった。ポケモンたちがサツキを守るように取り囲んでいるが、それでも霧から発せられる執着と怒りの荒れ狂い方が凄まじい。
――あれが、ポケモンの霊なら。
――図鑑が反応したりしてくれないかな。
恐怖の中で、藁にもすがる思いで閃いたそれを実行する。
おそるおそる、白い図鑑を開いて霧の方向に向けてみる。
反応なんてするわけもないのに。
「――――……えっ?」
するわけも、ないのに。
ぴこん、と図鑑は表示する。
『薄いガス状の生命体。ガスにつつまれるとインド像も二秒で倒れる』
名前欄は、ゴースと書かれている。
「……ゴース……?」
ガスじょうポケモンのゴースならば、この霧も納得がいく。煮詰めたアンモニアのような臭気もこのせいだろう。
だけど、これが生身のポケモンであるならラジオ塔に恨みがあるポケモンではないはず。どうしてここにいて、どうしてオーカを連れていこうとしていたのか。
「っ、そうだ、ゴースに捕まってたなら……!」
ゴースに気を取られてオーカの容態を忘れるところだった。
精気のないなま白い肌をしたオーカ。息は荒いのに体温だけがやたらに低くて、まるで死体のようだ。
“ガスにつつまれるとインド像も二秒で倒れる”。そんな毒ガスに囚われていたのだ、離れたとはいえ毒に冒されているのは変わりない。
早く毒を中和しなければ。焦りながらナップザックの中を漁るサツキを、ゴースは邪魔してくる。
「ミーちゃん、ピーちゃん、オーちゃん、ゴースをできるだけ遠くにつれてって!」
重い重圧がかかってきて、今に挫けてしまいそうなのを必死に耐える。
この階に入ってから心が重い。それはきっと、強い執着と執念を持ったゴースのせいなんだろう。
「あった、どくけし……!」
ナップザックに雑多に入れたどくけしをようやく引っ張りだして栓を開ける。元はポケモン用だが、人に使われることも少なくない。
オーカの口をこじ開けて、蒸せないようにゆっくりと流し込む。
ポケモンならば、これですぐによくなるのだが。
サツキは自分でどくけしを使ったことがなかった。どのくらいで治るのかわからず、不安になる。
どうしよう、もう手遅れだったら。
あたしが怖がったせいで、オーカを助けられなかったら。
「オーカ…………!」
冷たい体に体温を分けるように、ぎゅっと小さなオーカを抱きしめる。
力のない冷たい体は人形のようで、なまじオーカの顔が整っているせいで洒落にならない。ずっと抱きしめてみたいと思っていたくらいかわいらしかったが、こんな形で実現するとは思わなかった。
起きて、オーカ。リーグで戦うんでしょう。
君がいなかったらリーグに行く意味ないんだから、起きてくれないと困るよ。全部君が言い出したことなんだから、こんなところでゴースなんかにやられないでよ。
あたしまだ君とバトルもしたことないんだから。
おねがい、起きて――。
「…………」
「オーカッ!」
ぴくり、小さな体が動く。
じんわりと体温が戻ってきているのを感じる。どくけしが効いたのだ。
焦って体を揺らさないように、オーカの頭を膝に寝かせて様子を見る。息も落ち着いて、顔色もさっきよりいい。
そんなオーカの様子にほっとしていると、ゆっくりとその目が開いていく。
「オーカ、大丈夫…………?」
「………………」
オーカの目が、開く。
しかしその目はサツキを映していないようだった。
うすく開かれた唇から漏れた「うるさい……」の言葉は、ポケモンセンターを出ていこうとしていたときの独り言に似ている。
まだ様子がおかしい。そう思って止めようとすると、オーカはがばっと起きあがって、場にポケモンを出し始める。
黄色と黒の警戒色の体に、象牙色の針を掲げたスピアー。彼が、オーカを守るように前に出る。
どうするつもりなのか。読めないまま、サツキは手持ちに下がらせた。オーカがどうにかするつもりなのだろうか、さっきまで毒に冒されていたその体で。
「……よくも」
オーカが初めて、独り言ではない凛とした声を発する。
怒りのこもったその声は、なにか尋常ではない圧力がある。
「よくも僕を捕まえようとしてくれたなゴース。散々呼んで、変なもの見せて、おかげで今どっちなのかわからないよ。気分が悪い」
なにかが高まっている。そのことだけがサツキには感じられた。
まるで見えない力が、オーカとスピアーに集約されていっているようだ。オーカの髪が風もないのに揺れて、金髪が光っているように見える。
そんなオーカの怒りを無視して、ゴースが強風に乗せてシャドーボールを打ち出してくる。
「……っ僕の話を、聞きなさい!」
スピアーがなんなく全てのシャドーボールを打ち消して、ゴースの前へと飛び出す。その象牙色の槍を大きく振りかぶって。
しかしゴースになんなく避けられ、しっぺがえしがスピアーに決まる。
べちん! と嫌な音を立てて落ちたスピアーにゴースは容赦なくシャドーボールを打ち込んで、動かないと見るとオーカへ向かって直進してきた。
「形なき敵を――貫け、ダブルニードル!」
ゴースの中心を、スピアーの槍が貫く。
寸分の狂いもなく。
さっき、たしかにかなりのダメージを負っていたスピアー。だがそんなダメージは見せもせず――否、そんなダメージがまるでなかったかのような攻撃の美しさだった。
――治ってる?
スピアーが技を受けて体が傷ついていたのはサツキも見ていた。だがどうだろう、今のスピアーはまるで無傷だ。ポケモンセンターに行ったあとのように艶やかで。
奇妙さにサツキは首をかしげる。だがオーカはそれを気にせずゴースの方へと歩いていく。
危ないよ、と声をかけてもオーカには聞こえていないようだった。
「寂しい寂しいって、お前ね、だからってこんなことしていいわけないだろう! お前が暴れるせいでラジオ塔は閉鎖されてるし、子供たちが体を壊すし、あんまり叫ぶから僕はこの町に来てから本当にしんどかったんだぞ! 反省しなさい!」
まるで母親が叱るような口調で、オーカが叫ぶ。
「おかげで眠くて眠くて仕方ないのに、お前のせいで眠れなくてここまで来たらなんか捕まるし毒は苦しいし散々だ! お前に同情はするけど、だからってなにしたって許されるわけじゃない、ちゃんと町の人に謝るんだ!」
ゴースはその剣幕に押されて、黙ってオーカを見ている。
やがてオーカは空のボールを差し出して、再三叫んだ。
「そんなに寂しいなら、僕と一緒にくればいい!」
えっ、とサツキが漏らす暇もなく、ゴースが喜々とボールの中に入り込む。
ボールがゴースで満たされた瞬間、霧が消え、煮詰めたアンモニアのような臭気が消える。
そうして。
「オーカッ!」
次の瞬間倒れるオーカの体を滑り込みでキャッチする。
やっぱり毒が消え切っていなかったのか、と焦って顔を見るも、どうも寝ているだけらしかった。
――そういえば、眠くてしかたないってさっき言ってたなあ。
「よかった……」
ここからポケモンセンターまでは少し距離はあるが、オーカくらいなら背負って行くのも難しくないだろう。
スピアーにボールへ戻ってもらい、落ちていた麦わら帽子をオーカに被せてあげる。
オーカが持っているゴースのボールをホルダーに戻そうととりあげると、中のゴースが満足そうにしているのが見えた。
これで、一件落着、らしい。
「オーカ……君は、なにを聞いてたの?」
呟いてもオーカは起きない。
始終、サツキが見えていないくらいゴースに支配されていたオーカ。
寂しいと頭に響いていて、なにかゴースに見せられていた、らしい。
あのスピアーの一瞬にして傷が治っていた現象も気になる。スピアーもオーカも驚くそぶりを見せていなかったから、おそらくは二人にとって当然のことなんだろうと思うのだが。
なにか、オーカは持っているのだろうか。
「……。……帰ろうか、みんな」
それを問うにはまだ早い気がする。
帰路に向かいながらサツキは思う。オーカはなにか隠しているんだろうと思う。だけど、それを知る前に自分のことをなんとかしなければならない。
次は、幼なじみの待つ町なのだから。
+++
オーカは、深い眠りから目を覚ます。
酷い頭痛と疲れと眠りすぎたせいで体が痛いのとで、気分が悪い。
無理矢理に体を起こして時計を見ると、時刻は七時を示していた。
朝ではない。窓の外を見てみると真っ暗な夜が鎮座している。昨日の晩、オーカは平静ではなかったから何時に寝たのかもわからないが、おそらく二十時間ほど寝ていた計算だろうか。
「昨日は散々だったからな……やっぱりあれは夢じゃなかったんだ……」
オーカが起きたのを見て、いち早くボールを飛び出しなついてくるゴースにオーカは確信する。
昨晩、ゴースに呼ばれてラジオ塔に行ったのは夢ではなかった。あまりに強烈に揺さぶられるからあのときオーカはほとんど正気でなかったはずだが、散々な目に遭ったことだけはなんとなく覚えている。
そんな目に遭わせてきた張本人は、そんなことお構いなしにオーカに体をすり付けて甘えている。
本当にこのゴースは寂しかっただけなのだ。
もうアンモニアのような臭気もしなければ、また毒に冒されることもない。ごく一般の、甘えん坊でおとなしいゴースに戻った。
「あれ、なんでベッドに帽子が……。……ていうか、僕昨日どうやって帰ったんだ?」
いつも被っている麦わら帽子が、枕のあたりに転がっている。
誰かが連れて帰ってきてくれたんだろうが、ポケモンたちに顔を向けても首を振るばかり。それもしかたない、オーカの手持ちは人を運べるような大型はまだいない。
ゴースも、同じように首を振る。
不思議に首をかしげると、ふと昨日の記憶が蘇ってくる。
そういえば、誰かが一緒にいたような気がする。
上手く思い出せないが、毒に冒されているとき温かな体温が側にあって、落ち着いた気持ちになったことは覚えている。あれは――。
「…………サツキ、さん?」
根拠はない。だが側にいたのはサツキじゃないかと思う。
否、いてくれたのがサツキだったらいいと思った。やはり誰がいたかは思い出せない。
だが、そうなるとオーカは重大なミスを侵したことになる。
「もしかして、僕……――――!」
さぁぁぁ、と血の気が引いていくのを感じる。
もし、そうなら。
取り返しのつかないことをしたかもしれない。
+++
「そういえば、サツキちゃんがシオンタウンに入ったらしいぞ」
お手伝いが目まぐるしく出入りする居間で、親子三人は食事をする。
いつも静かな食卓を明るくしようと努めるのは父のタケシだった。
「俺と、サツキちゃんのお母さんのところと、あとはクチバジムも無事にバッジを手に入れたみたいだから次はお母さんのところに来るだろうな」
「まぁ、サツキちゃんが……それは楽しみですわ」
タマムシジムジムリーダーの母エリカは、その言葉にたおやかに微笑む。
サツキは母の親友の娘で、幼い頃は本当に姉妹のように育てられた一番の親友だ。
この広い家に遊びに来たことは数知れないし、サツキの家に行ったことも数え切れない。
そんな幼なじみであり親友の来訪に、娘のユリカは口を開かない。
「楽しみだろう、ユリカ」
「…………」
ぱちん、と食事を食べきり箸を置く。
父はたったそれだけの動作に異様な圧力を感じて思わず黙った。
娘が、口を開く。
「ええ、とても楽しみですわ」
楽しみにしているとは思えない、怒気のはらんだ無機質な声で言ったきり、ユリカは部屋へと下がってしまった。