セキチクシティ その1
タマムシから急勾配の坂をレンタル自転車で一気に下り、そこからさらに一日歩いた先にセキチクシティはある。
ここはサファリゾーンが有名な町で多くの観光客が来るところでもある。珍しいポケモンが多数住んでいて、中には観光専用ルートが存在する。
しかしそれを自由に捕獲することもできるのだ。
もっとも、この施設ではポケモンの持ち込みができないため通常の捕獲よりも難易度は遙かに高い。ポケモンの持ち込みができない以上、自分の身を守るのは自分しかいないため、怪我は自己責任というハードな施設でもある。
それでも腕に自信のあるトレーナーはここに来る。
サツキもまたその一人。
「あったあった、サファリゾーン……あれ」
その大きな施設の入り口の陰で、存在感を放つ臙脂色の髪の美少女。
遠巻きに彼女を見る人だかりを一切気にした様子もなく、美少女はニドキングと二人で佇んでいる。その表情はどこか悩ましげで、愛らしい顔が不思議な色気を纏う。
まずその姿に見惚れて、それから声をかけようか少し逡巡する。
別れ際に名前を呼ばれたとはいえ、あの美少女に自分のことを覚えられている自信がなかった。それでもどうにか近付いてみたいという欲求に、サツキは勇気を出して声をかける。
「あ……あの」
「?」
「久しぶり……メル……ちゃ、ん」
フェルメール――メルの名をおずおずと呼んでみると、幼げな美貌の少女はなにかを思い出した様子で口を開く。
「あ、えーっと……久しぶりね。……ツバキ?」
「サツキです」
「ああ、ごめんなさい。花の名前だったのは覚えてたんだけど」
やはり、と思ってしまうほど綺麗に間違われる。否、顔が覚えられていただけましなんだろうか。
前回どうして名前を呼んでもらえたのか、ますます不思議だった。
「メル、ちゃんは……なに、してたの?」
「別に、呼び捨てでいいわ。入ろうか悩んでたの」
慣れないちゃん付けを見透かされたのか、あっさりと呼び捨てが許可される。そんなおこがましいことを許してもらっていいのか、と不安に彼女の取り巻きを思わず見てしまった。
嫉妬と恋慕と羨望の入り交じった異様な空気感の中心にいることがとてもいたたまれない気持ちになる。それでもメルは気にもかけず、話を続ける。
「この中、ポケモン連れていけないでしょう。サファリのポケモンが見たいんだけど、わたし一人で動くのは怖くて」
「そうなんだ……。……この子、この前のニドリーノ?」
「そうよ。あなたのおかげでニドキングにできたの。この前はありがとう」
メルの言葉のおかげで、サツキは悩みを吹っ切ることができた。そのお礼にと月の石をあげたのだが、無事に進化させることができたらしい。
メルのニドキングは相変わらず不機嫌で、彼女の美貌を疎ましげにさえ見る。それでもニドキングは絶対に彼女の側を離れないので、ボディガードかなにかなのだろう。
「何に襲われるかわからないから、踏ん切りがつかなくて……。そろそろ諦めようかと思っていたの」
「じゃ、じゃあ、一緒に入りませんか?」
反射的に言ってしまった言葉に、サツキは口を押さえる。
バクバクとなる心臓に、顔が熱くなっていく。こうして話しているだけでも緊張するのに、そんなことできるのか。自問自答するが、こうでもしないと彼女は去ってしまう。
ほんの少しでもつなぎ止めようと、なにかの本能が働いているようだった。
「あたし、一応体鍛えてたりするし……あの、幼なじみに付き合って、軽く格闘技やったりもするんだ。ポケモンと戦うのは難しいかもだけど、君を抱えて逃げるくらいは、多分できる……から、あたしが君を守るから、一緒に、行かない!?」
自分でもなにを言っているのかわけがわからなくなりながら、全部を言い切ったことにまず息を吐く。
メルの銀の大きな目は、ニドキングとサツキを見比べる。
その査定が終わるのを待って、サツキはどきどきしながら返事を待った。
「……本当に大丈夫?」
「体力には、自信あるよ! 二時間くらい走り込んだりするし、メルを抱えながらでも、ぜんぜん、行けるよ!」
本当にいけるかどうかは知らないが、気概を懸命にアピールする。
メルは小柄で細く、乱暴に扱えば壊れてしまいそうな繊細な容姿だ。そう重くはないはず。だからこそ、自信をもって言えた。
「――絶対、わたしから目を離さないでね」
「…………――はい!」
不安げに手を差し出すメルのことを力強く掴む。
これでまた一歩近づけた気がする。
そう、気が早いが思ってしまう。メルは美少女なのだが、それ以上に魔性とも言える魅力がその平淡さにある気がする。どうしても、その内側に入ってみたくなる。
だから、チャンスは手放したくない。
「じゃ、じゃあ、中入ろっか……」
「今度はお父さんお母さんと一緒においでね」
「ちょ、ちょっと……僕はトレーナーですよ! 見学に来たんじゃなくて……押さないでください、ねえ!!」
メルの手を取って中へ入ろうとしたとたん、自動ドアから小さな女の子が飛び出してくる。
麦わら帽子に、深緑のジャンパースカート。その大きなつり目は怒りと焦りに染まっている。
「オーカ!?」
「あー、もう! マサラからわざわざ八歳の女の子が一人で来るわけないのに! 全然話を聞いてくれないんだから! くっそー……」
「お、オーカ?」
怒りに地団太を踏むオーカの肩を掴むと、飛び上がるように距離を取られる。
一気に顔が赤くなっていって、わなわな震える様は年相応の女の子らしい。
「なんでいるんですか!? 見てたんですか!」
「ご、ごめん見ちゃった……追い出されたの?」
穴があったら入りたい、とでも言うような挙動がかわいらしい。オーカは小さく頷く。
誰なのか、と問いたそうな表情のメルに、オーキド博士の娘であると伝える。他人にあまり興味がなさそうなメルも、さすがにオーキド博士の名は知っていたらしく警戒するような様子を潜めさせた。
「子供は入っちゃだめだって……十歳だって言ったのに……」
「えっ、十歳なの?」
「メル、言っちゃだめ」
「ちゃんと十歳です、失礼……な……」
オーカがメルの存在を認めたとたん、さきほどまでとは別の意味でどんどんと赤くなっていく。湯気でも出そうな雰囲気に、サツキは思わずわかるよと肩を叩きたくなった。
女の子が女の子にみとれるのはどうなのかと若干思ってもいたのだが、メルの前では正常らしい。オーカには悪いが安心する。
「あの、十歳以上じゃないとダメって追い出されちゃって……あの、そんな感じです……」
「そっかー、それは大変だったね」
オーカはどうがんばっても八歳か七歳ほどにしか見えない。九歳ならば小さい方だと思えるかもしれないけれど、十歳では嘘と思いこまれても仕方ないだろう。実際サツキも驚いたものだし。
オーカは身長も低いが、顔も成長の遅さに合わせたようにかなり童顔なのだ。
しかし、このままお別れも可哀想でならない。
「じゃあ、一緒に行く? 年上と一緒なら入れてもらえるかも」
「えっ」
「メル、大丈夫?」
「ちゃんと守ってくれるなら、それでいいけど」
どう、とオーカに繋いでいない方の手を差し出す。
オーカはサツキとメルを交互に見て、特にメルに対する遠慮と照れに少しの間返事をしなかった。それでもサファリに入りたかったのか、おずおずと礼をする。
「……おねがい、します」
「決まりだね!」
入る前に自己紹介、とメルとオーカを向かい合わせて、サツキが簡単に名前を紹介する。
メルの名前を聞いたとたん、全てが腑に落ちたような、それでも驚愕を隠せないような声でオーカが呟く。
「フェルメールって……マサラの妖精……!?」
「サツキも言ってたけど、なにそれ?」
「あははは、なんだろーねー……」
マサラでは有名な妖精は、彼女だけがそのことを知らないらしい。
メルとオーカ、二人を引き連れてサツキはサファリの中へと足を踏み入れた。
+++
入り口で手持ちを預けて、代わりにサファリで使う特殊なボールと、ポケモンのエサを受け取る。
サツキたちが入るのは観光のための見学コースではなく、自分たちで歩き回ってポケモンを捕まえるサファリコース。ポケモンは使えないし、怪我をしても自己責任。
けれども代わりに、珍しいポケモンをゲットするチャンスでもある。野生で見ることは難しいようなポケモンを、環境を整えてこうして間近に見ることができるのだ。
サファリゾーンの施設の内側は、広大な自然に溢れていた。
自然の多い地域だって、こんな手の加わっていないような鬱蒼とした自然は存在しない。あのトキワの森でさえまだ人の通り道があるというのに、ここは獣道くらいしかないようだった。
「はぁー、想像以上に難しそうだね、ここ」
「だからこそ、珍しいポケモンを捕まえることができるんですよ」
草原のゾーンを歩きながら、サツキはせめて長ズボンを履いてくるんだったと後悔する。トキワの森でもずいぶん足を切ったし、ここでも切り傷が大量についてしまいそうだった。
メルと手をつなぎ、背の低いオーカからは目を離さないようにしながら、三人は草をかきわけて進む。
「それで、二人はなにか、目当てのポケモンとかあるの?」
「いえ、特に……手持ちは埋まってるので。でも珍しいポケモンがいたら、捕まえようかなぁって」
「わたしはサイホーンかなぁ……いるって聞いたし」
「サツキさんは?」
「あたしは、六匹目を悩み中」
サツキの手持ちは今五体。あと一匹を捕まえるならなんだろうか、と考えてここに来たのだ。うっかりするとまた水タイプを入れてしまいそうで。
「あっ、サイホーンあっちにいるよ」
「なにかこっちに来てませんか?」
あたりを見回しながら、すぐそこにメルの目当てであるサイホーンの群れを見つける。
中には何匹か進化系のサイドンもいるようだ。
そんな中、内一匹がのそのそとサツキたちの方へと向かってくる。
サイドン。
灰色の巨体は一.九メートル。二足歩行で足はあまり素早くないが、代わりにその攻撃力はすさまじい。特に額のドリルはサイドンの最大の特徴とも言える。
そのサイドンはのそのそと向かってくるが、その様子に攻撃性は見当たらない。なんだろう、とオーカと二人顔を見合わせていると、メルがサツキの後ろへと隠れる。
「……な、なに……?」
サツキたちの目の前に来たかと思うと、サイドンは恭しくサツキに頭を垂れてみせる。
まるで執事が主人に傅くように。それでもその巨体はサツキよりも大きいのだが。なんだろう、なつかれたのだろうか。
「え、なに? 一緒に来たいの?」
「迷惑。帰って」
「えっ?」
サツキが戸惑う中、メルがはっきりと声を出した。
メルの言葉にサイドンは悲しげにするも、退く気はないらしく傅いたまま。
「……メル目当て?」
「たまにいるの。困るから追い払って」
「でも、この子大人しそうだし……」
「一匹でもそういうの受け入れると、他にも大量に来るから困る。追い払って」
曰く。昔から人でもポケモンでも関係なく惚れられることが多いらしいメルは、自分に関心を持って寄ってくるオスは基本的に遠ざけているらしい。
一人でも一匹でも受け入れると、自分もいけるかも、と思って言い寄ってくるのがどんどん来てしまって大変になるからできるだけやめなさい、と言うのが母親の教えだと言う。
実際、メル自身もうざったいからその通りにしてきたそうだ。
美少女だからこそ許されるその理不尽に、サツキもオーカも思わず感嘆のため息をしてしまう。サイドンにはかわいそうだが、実際その通りだろう。
「ごめんね、サイドン。いいトレーナーに会えるといいね……」
あはは、と笑いながら、メルを背中に庇ってサイドンからゆっくりと距離を取る。
その腕が届かないほどの距離になってから、メルを抱き上げてオーカと一緒に走った。サイドンが追いかけてくる様子はなく、姿が見えなくなる直前まで彼は恭しく跪いたままだった。
「こ、ここまで来れば大丈夫かな……」
「はぁ……はぁ……」
「オーカ大丈夫?」
ぜろぜろと咳をするオーカの背を撫でて、落ち着くのを待つ。あまり体力がある方ではないらしい。
抱えられていたメルはというと、周囲を警戒してからうんざりしたようにため息をついていた。美少女とは大変なものなようだ。
「あのサイドン、ちょっと可哀想だね」
「かなり紳士的でしたもんね」
「いいの。わたしを嫌いなくらいでちょうどいいから」
ばっさりと切って捨てるメルに、サツキとオーカは顔を見合わせる。こんな可愛らしい彼女にそんなことを言われたら、立ち直れる気がしない。
実際サツキも聞いているだけで胸が痛い。
それでも彼女を嫌いになろうとも思えないのは、メルの圧倒的なかわいさと嫌われて放たれている言葉ではないとわかるからだろう。
「あ、あっちはニドキングたちの群れみたいですよ。……ニドクインを取り合ってるみたいです」
「ニドキングかー、あたしは別にいいかな」
「持ってるから、わたしもいい」
「他にどんなポケモンいるんでしたっけ」
ニドキングたちの抗争を横目に見ながら、サツキたちは入り口でもらったパンフレットを眺める。
ここには、サイホーンやニドキング、ニドクインの他にはウツボットやラッキー、ガルーラなどもいるらしい。
水タイプの欄にはアズマオウやギャラドスなどが載っているのを見て、微妙だなぁと思ってから水タイプ目当てでないと頭を振る。
しかし、手持ちの穴を埋めるにはどうも微妙なラインナップだ。
「ラッキーって珍しいんですよね。見つかるかな」
「ガルーラ見たい」
「うーん、だとすると結構歩くね」
パンフレットを見ながら、三人でうんうんと唸る。
そのとき、三人に陰が覆い被さった。
上を向くと、ボスと思われる通常より随分大きなニドキングがじっとメルを見つめている。これはまずい、と思って逃げようにも近すぎて慌てて動くと刺激しかねない。
そっとメルを背後に隠しながらニドキングの出方を見る。さきほどのサイドンと違い、なんだか嫌な感じがする。
「オーカ、走れる?」
「た、たぶん……」
ひっそりと声をかわしているうちにも、ニドキングの手がメルへと伸び出す。
すんでのところで避けて、すぐにサツキはメルを抱き上げて走り出した。オーカも遅いながらすぐについてくる。
ニドキングの狙いはメルだ。オーカがどんなに遅くても、オーカに危害は加えない。
それでもサツキはオーカとはぐれないように、時に攪乱しながら隠れられる場所を探した。まさか、タマムシでトレーニングしたことがこんなところで生きてくるとは思わなかった。体力があっても、トレーニングなしではここまで走れていなかっただろう。
「あ」
「どうしたの!?」
「ウツボットと目が合った」
「ええええ」
悲鳴と共に、ウツボットの攻撃がニドキングへと直撃する。
その視線は確かにメルへと注がれていて、見ていろと言わんばかりにニドキングに攻撃を開始する。ニドキングも黙っているばかりでなく、サツキたちを置いてそのままニ体のバトルへと発展してしまう。
「……今のうち」
「逃げましょう……っ」
もちろん見ていることはなく、三人はさっさとニ体から遠ざかった。
+++
「……お父さん」
静かな研究所の中、妻イエローがグリーンを呼ぶ。
専業主婦である彼女はいつも、家事を済ませると研究所の掃除などをしにくる。そんなイエローが、不安げにグリーンを呼ぶ。
さきほど電話があったから、そのことだろうとグリーンはなんとなく予想をつけた。
「さっき、エリカさんから電話があったんです」
「エリカから」
ジムリーダーである友人レッドとカスミ夫妻によって、サツキとオーカが旅立ったこと、メルが失踪したこと、三人がレッド、グリーン、ブルーの娘であることはジムリーダーたちに周知されている。
そのおかげで、夫妻の友人ジムリーダーからジムに来たという連絡が入ってくることはままあった。今のところ、クチバ以外からは通った町全てから連絡が来ている。
今はタマムシにいると、数日前に娘のオーカ自身からも連絡があったばかりだ。
その内容を、イエローは悲しげに報告する。
「あの子、能力を暴発させかけたんだそうです」
「……能力を」
「苦しそうにバトルしてるって、タケシさんやカスミさんからも聞いていたんですけど……やっぱり、もう抑えが効かないみたいで」
オーカは、その特殊能力のコントロールができない。
それを悩んで、わざわざ一年間ジョウトにいるグリーンの師まで訪ねていた。
戻ってきたときはもう大丈夫と強がっていたが、やはり無理矢理抑え込んでいただけで、きちんと克服したわけではなかったらしい。
「ごめんなさい……僕がもっと教えられたらよかったんですけど」
「お前が謝る必要はない。能力なんて感覚的なものを教えるほうが難しい……お前は、特に悩まずに来たんだろう」
娘の悩みの力になれないことは、親としても心苦しい。そんな想いは、同じ能力者であるイエローは特に強いようで、こうして苦しみを漏らすことも多かった。
能力者でないグリーンには、二人の共有するものも、娘の悩みもわからないものばかりだった。
昔イエローに能力の応用を教えたこともあったが、あれは彼女が能力をコントロールできたからにすぎない。能力が漏れ出すばかりで抑えられない娘の力には、どうしてもなれなかった。
「もっと、能力について調べられたらよかったんだが……知っている能力者は、お前とワタルしかいないからな」
「あの人に頼るのは絶対にいやです!」
「わかっている」
かつての宿敵であるワタル。その能力はイエローと同じもので、おそらくイエローよりも能力について知っているだろう、カントーのチャンピオン。
あの事件以来、シルバーに協力するなど善人としての面も目立つが、それでもイエローの拒絶反応は強い。
「あいつが、自分で解決する以外ないだろう……」
「……あの子、バトルを嫌いにならないといいんですけど……」
「…………」
二人がもっとも危惧しているのはそれだった。
オーカの能力があのままコントロールの効かないものだったら、きっとリーグ出場さえままならないだろう。そのままバトルを嫌いになって、内に篭もってしまわないかが不安なのだ。
真面目で、真剣にバトルをすることを望むオーカだからこそ、あの能力は邪魔にしかならない。
それでもオーカは、まだあの能力と向き合いきれていないのだ。
「……俺たちになにができる」
「…………」
「帰って来るのを待とう」
次はセキチクシティに行くと言っていた。順当に行くならば、そのままグレン島に行って、一度マサラに戻ってくるはずだ。
二人にはなにもできない。
+++
ぜぇ、ぜぇ、と息を荒らげて三人は座り込む。
ニドキング、ウツボットから逃げた後、ケンタロスやウツドン、ギャラドスに果ては温厚なはずのラッキーにまで追いかけられ、ようやく落ち着ける場所を見つけたのだ。
「め、メル……っ、いつもあんな感じなの……っ」
「いつもああだったら……そもそも入ってない……っ!」
走り回っているうちに、サツキの方に限界が来て結局メルにも走らせてしまった。
メルは時折強く咳こんで苦しげに呼吸を繰り返している。その姿に申し訳なくなるが、十一歳の娘に一人抱えたまま走り続けるのは難しいものがあった。
しかし、タマムシで大量のナンパをいつものことと言い放ってしまうメルにさえこの状況は予想外らしい。普段は無理に襲ってくるポケモンなどほぼおらず、入り口でのサイドンのように連れていってくれと懇願するようなポケモンがほとんどだと言う。
サファリゾーンのポケモンは、ただの野生よりも強いなわばり意識がある。メルに向かってきたポケモンたちは軒並みボスクラスだったのもあり、おそらく自分のものにできる自信があったのだろう。
「にしても、どうする? これじゃ帰るのも難しいし、救援呼ぶ?」
「待ってるうちにまた襲われるに決まってるわ」
サファリゾーンの各地に、係員へ連絡するための電話が置いてある。それに電話すれば、入り口まで連れていってもらえるかもしれない。
だがこの状況では、メルの言うとおりだろう。
「はぁー、どうしようね。ポケモンもいないから戦えないし……あたし、今どのあたりかもわかんないよ」
「帰るのはどうにでもできるけど、どう抜け出すかよ。戦うなんてできないわよ」
「ねぇ、オーカはどう思う?」
ここまで、一言も話さないオーカの方に顔を向ける。
するとなにやら神妙に、自分の手を見ていた。
絶望とも取れる複雑な表情を不思議に思いながら見ていると、オーカは聞き取れるかわからないくらい小さな声で、「僕のせいかもしれない……」と呟いた。
「…………?」
その意味がわからなくて、サツキは小首をかしげる。
メルの方を見ても、彼女は聞いていなかったようで特に気にした風ではなかった。
「オーカ、大丈夫……?」
「さ、サツキさんっ!」
「きゃあああ――――っ!」
声をかけようとした瞬間、いつの間にか囲まれていたらしい、ポケモンたちの集団がサツキたちの逃げ場を潰す。
その視線は見事にメルにだけ注がれていて、どのポケモンも彼女を手中にせんと周囲にプレッシャーをかけている。そのせいで尋常でない圧力が、サツキたちに降りかかる。
「どうしよう……」
「……わたし、つかまったらどうなるの?」
「お嫁さんにされると思います」
「それで済めばいいけど……」
一匹、ニドキングがメルに手を伸ばそうとしたとき、サツキたちの前になにか大きなものが突如現れる。
地面を突き破って、大きく土を舞い上げて現れたそれは、二メートルはありそうな灰色の巨体。どこかで見たと思えば、入り口でメルに傅いていたサイドンだった。
彼はニドキングに向かって勇猛に飛びかかり、殴りとばしたかと思うと次に周囲のポケモン全員にロックブラストで攻撃を始める。
その岩はけしてサツキたちには当たらず、当たりそうになればサイドン自身が破壊していく。
「……守ってくれてる、みたい」
「ずっとついてきてたんでしょうか……」
「…………」
そのサイドンは勇猛だった。
一匹で、しかも相性の悪いポケモンさえいるなかで、けして怯むことなく善戦した。サイホーンの群れのボスだろう彼はその実力を大いに発揮して、ニドキングを殴り倒し、ウツボットを踏みつけにして、ギャラドスさえ投げ飛ばした。
だが多勢に無勢、その状態は協力しだしたポケモンたちによって長くは続かなかった。
ウツボットのつるに捕まり、ラッキーのタマゴばくだんが直撃し、ケンタロスに腹への打撃を受ける。
集団リンチのような状態の末、サイドンが地へと伏せた。
「サイドン……」
目の前に倒れ込む彼を、メルが労わるように触れたのも気にせず、ポケモンたちは戦争を始め出す。
誰がメルを手にするか。
その資格がある者を決めようとばかりにお互いを攻撃しあう。それはメルに攻撃が及びそうになろうと関係なく行われ、サツキは彼女が怪我をしないよう遠ざけるだけで精一杯だった。
この戦争は、勝者が決まるまで終わらない。
決まるまで、サツキたちも帰れない。この攻撃の嵐の中、うかつに動くだけでも命の危険があった。
「…………」
三人、地に伏せたまま縮こまりながらその行く末を見届けていようとした。
しかし。
「オーカ、危ないよっ!」
オーカがおもむろに立ち上がり、戦争の渦中へと歩き出す。
引き留めようとした手は弾かれて、瞬間オーカへと攻撃の流れ弾が当たろうとした。
小さな少女はそれを避け、ついに怒りを爆発させて叫ぶ。
「いい加減にしなさい――――ッ!!」
ぶわ、と風もないのになにかが吹き抜けるのを感じる。
それは暖かく包み込んでくれるような、穏やかな気持ちになるもので、ポケモンたちが一斉に攻撃をやめた。
この感じを、サツキは知っている。
シオンタウンでオーカが同じようなことをしたはずだ。
どんどん、ポケモンたちの傷が癒されていき、その攻撃性を削いでいき、戦争をやめ、メルへの執着をやめ、オーカの声を聞く体勢に入る。
この奇妙さを知っている。
「さぁ、さっさとおうちに帰りなさい!」
母親のような口調でオーカが叫ぶと、ポケモンたちは今までの行動が不思議なほど穏やかに帰っていく。もうメルのことは見ず、お互いのことも気にしない。
暖かな風圧が止み、サツキとメルとサイドンと、そしてオーカだけが取り残される。
「…………オーカ……」
「今のは…………」
声をかけた瞬間、オーカがばちんと怯えたような顔で振り返って、逃げだそうとする。慌てて捕まえてもオーカはなお逃げようと暴れて、怒られることを恐れる子供のように違う違うと繰り返していた。
「ちがうんです、今のは……っこれしか思いつかなくて、ちがう……抑えられなくてっ、でも、普段使おうとして使ったことなんかないんですっ! バトルで使おうと思ったことなんて、いちども、ないんです――っ!!」
「落ち着いてオーカ、なんのことだかわからないよ。君がこれをやったの、シオンのときと同じように……っ」
全身を使って暴れる小さな女の子を押さえるのは難しく、怪我をしないように両腕を押さえるだけで精一杯だった。
柔道も教えてもらっていたらよかったかもしれない。
押さえ込む術を知らないまま、パニックに陥ったオーカの言葉を聞く。
「僕はバトルで使おうとしたことなんかありません、でも押さえられなくて、ずっとできなくて、でもっ本当にわざと使おうとしたことなんてないんですっ。バトルで不正をしたことなんてないんです、信じてください、僕はうそつきなんかじゃありません、ちがうんです、これは、ちがうんです――っ」
なにを弁解しようとしているのかさえわからない。
サツキは混乱のまま、オーカが疲れるのをただ待った。
待つしかなかった。そう途方に暮れていたのを、止めたのはメルだ。
「……あなたは、トキワの森の能力者なの?」
彼女の投げかけた言葉に、オーカの動きがぴたりと止まる。
絶望に満ちた表情を心配に思いながら、サツキはそれがなんなのかを聞いた。
「……メル、なにそれ」
「十年に一人、トキワに生まれる能力者のことよ。ポケモンの思考を読みとり、その傷を治すことができるの。使い方によっては、ポケモンの能力も引き上げることもできるって」
ポケモンの傷を、オーカは治してみせた。
シオンと、この場で。あれはそういうことだったのかと納得する。
そしてメルが最後に言った言葉にオーカの弁解の意味が腑に落ちた。
――バトルで使ったことなんかないんです。使おうと思ったことなんかないんです。でも抑えることができない。
クチバシティで、どこか苦しそうにバトルしているのを見た。あれは、この力を抑え込みながらだったせいかもしれない。
「ぼ、ぼくは…………」
「でも不思議ね。わたしの知っている人は、ポケモンに触れないと能力が使えなかったのに。あなたはそんなのいらないのね」
「僕は不正はしていませんっ!!」
わあとしゃがみこんでしまったオーカが叫ぶ。
「こんな力を、使おうと思って使ったことなんてありません! でも興奮すると、どうしても漏れだしてしまって、ううんいつも抑えきれなくて少しだけ漏れていて、それでポケモンが寄ってきてしまって、だからメルさんに危害が――でも本当にわざとじゃないんです! 僕のせいなんですごめんなさいごめんなさいごめんなさいでも僕は本当に、本当にこの力が嫌いで、使いたくなくて、だからバトルでやろうなんてこと一度もないんです信じてくださいサツキさん、僕は――っ」
「オーカ」
なにかを恐れて弁解を繰り返すオーカの肩を掴む。
サツキを、泣き出しそうな顔で見るその姿があまりにも小さく無力な少女すぎて、いっそ哀れにさえ見えてくる。
トキワの森の能力者であること。それが、彼女にとって苦しいものだっただろうと言うのは、サツキにも検討がついた。メルのおかげで。
「大丈夫。君がその力をバトルで使おうとしないなんてわかるよ」
だから、サツキはきちんと伝える。
オーカは真面目だ。バトルに対して真剣だ。
不正を許さない彼女だから、サツキの無意識の手加減に強い怒りを示した。
バトルにもリーグにも真剣で真摯で真面目。そんな彼女が、バトル中にポケモンを回復したり、ポケモンの能力を上げたりなんてするはずがない。
そんな能力を持っていることに嫌悪さえしていることもわかる。
サツキはオーカのことをほとんど知らない。会ったのもほんの数回だ。
それでも、彼女がどれだけ真面目で真剣であるかはきちんとわかっている。
「君がバトルを大好きで、どれだけ真面目に真剣にやりたいか、あたしはちゃんと知ってるよ。だからあたしはここまで来たんだから」
「サツキさん……」
「バトルに真剣な君に挑まれたから旅に出ようと決めたんだよ。ちゃんとあたしはわかってる。だからそんなに怯えないで。誰も君を責めたりなんてしない」
オーカにきちんと伝わるようにと願いながら、サツキは言葉を続ける。
あたしは乗り越えたよ。
だから次は君の番。
「君と戦いたくてあたしは旅に出たんだよ。バトルのこと一生懸命考えて、乗り越えてきたよ。言葉じゃ伝わらないと思うけど、あたしはたしかに乗り越えたよ。それは、戦えばわかるはず。
じゃあ君は、これからどうするの? 力を抑えられないから、どうするの? あたしは乗り越えたよ。君はどうしたくて旅に出たの? このままバトルをやめるなんて言わないよね」
叩きつけるように言葉を続ける。
これで合ってるかもわからない。サツキにはオーカの力になってあげることなんてできない。
それでもこれだけは伝えないといけない。
「あたしをたきつけておいて、自分は乗り越えられなかったからリーグに出ないなんて言うなら――そんなのあたしは許さないよ!」
サツキはオーカと戦うために旅に出た。バトルに悩み、苦しみ、乗り越えようとした発端は全てオーカだ。
彼女がいたから、ここまで来れた。たくさんの人の力は借りたが、オーカがいなければサツキは今もマサラタウンにいたはずだ。
だからこそ、サツキはオーカに立ってもらわなければならない。
発端であるオーカに、きちんと自分を見てもらわなければ終わらない。
それには、オーカ自身も完成されなければならないのだ。
誰よりもオーカがそれを望んだのだから。
「誰も君を責めたりしない。だから落ち着いて、力を抑える方法を探して」
きつく、オーカの肩をつかむ。
オーカは惚けたような表情で、サツキのことを見ている。
ずっと苦しんできただろうオーカに、まだ悩むことを強要しなければならないことは辛い。
それでも、オーカなら。自分で立てると信じたかった。
「……ねぇ。あなたは、能力のコントロールができないのよね?」
そんな二人の緊張に、割って入ったのは甘やかな声。
日傘を差し、優美に佇むメルはオーカを見つめて何気なくこう言った。
「だったらわたし、いい人を紹介できるかもしれないわ」
えっ、と驚く声を上げるオーカに、メルは目線を合わせるようにしゃがみこむ。
日傘の陰は、メルとオーカを飲み込むように伸びる。
「トキワの森の能力者。知り合いがいるわ。あの人なら、あなたの力になってくれるかもしれない」
「ほ、本当ですか!?」
「ええ。代わりにわたしのお願い、聞いてくれるなら会わせてあげる」
「お願いします!」
食らいつくようにオーカが返事するのを聞いて、メルは満足そうに微笑む。
その微笑みは、誘いは、天使なのか悪魔なのかさえわからない。
「じゃあ、出ましょうか。サイドンも捕まえたことだし」
「えっ?」
「あなたも一緒に来るでしょう?」
すっと立ち上がる彼女は、ずっと近場で三人を見ていたらしいサイドンに振り返る。
オーカの能力によって傷も癒されたサイドンは、ぎょっとした顔で固まっている。無理もない、一度は振られた彼だ。
そんなことはお構いなしに、メルはサファリボールを取り出してサイドンへと差し出す。
「嫌ならいいけど」
拒絶することなど考えてもいない声で、小さな少女は灰色の巨体を見上げる。
巨体はメルに恭しく跪いて小さく鳴いたあと、迷いなくボールのスイッチを押した。
一連の流れはまるで映画のような美しい情景だった。
サイドンがボールに吸い込まれ、そのボールを腰につけると、メルは何事もなかったかのように「帰りましょう」と言ってみせる。
「……ほんと、メルはすごいなぁ」
サツキは感嘆のため息をついて、妖精メルを見つめた。
きっと誰も、彼女の真似はできまい。こんな風に何気なく、全ての空気を変えてしまうだなんて。
+++
あれから。
ポケモンを寄せ付けてしまうオーカと、ポケモンに惚れられてしまうメルが迂闊に動くのは危ないだろうと救助を呼んでサファリゾーンを三人は出た。
成果はサイドン一匹。だが目当てがいたのはメルだけなので、そのことをなにか思うことはない。
散々な目にあったが、三人にとっていい出会いであったことには変わりなかったのだから。
「じゃあ、オーカ。リーグで待ってるから」
「はい」
強く頷くオーカの隣には、臙脂色の髪の美少女メルが立っている。
サツキはこれから、明日のジム戦に備えて特訓をするつもりだから、ここで二人とはお別れだ。
「メル、ごめんね。あまり守れてあげれなくて」
「気にしてないわ、あれで守れる方が難しいと思うから。中に入れただけ、十分」
あまり期待されていなかったことに少し悲しさを思いながら、サツキは二人に背を向ける。
「じゃあ、また会おうね」
「次は、きちんとした僕になっていますから!」
オーカの声が、響きわたる。
「リーグで会いましょう!」
けして諦めていない彼女の声に安心して、サツキはサファリゾーンを後にした。