カケルは荒れていた。

「おい、壁を壊すな!」

「うるせぇ、町を壊した奴がなに言ってやがる!!」

容赦のない言葉に、父は口を閉じる。

なにも言い返せない苦しげな表情に、カケルの心は父に対する怒りと情けなさに塗りつぶされていく。

「この犯罪者! そんなのが父親だなんて反吐が出る」

「カケル、お父さんになんてことを……」

「それを知っててこいつを選んだお前もクソだ、ババァ!!」

なにも言い返さない父も、それを庇おうとする母も、忌々しくてついにカケルは家を飛び出していった。

待てとか、どこへ行くんだとか、そんなどうでもいい制止の言葉さえ耳に入ってこなかったのが、なおさらカケルの怒りを加速させるばかりだった。

+++

父のことを、カケルは尊敬していた。

カントー・ジョウトのチャンピオン、ワタル。最強のドラゴン使いとして世に君臨する父に憧れて、父からもらったミニリューと共に大きくなってきた。

弱きを助け強きを挫く、その姿勢や慈善事業を進んでやる背中を見習って、カケルは今まで人に恥じるようなことはしてこなかったつもりだ。

見た目で不良と思われることも多かったが、それでも。真面目に、親に反抗するようなこともなく、成長してきたはずだった。

微弱ながらに父と同じトキワの森の能力があることがわかったときはとても嬉しくて、どうにか使いものにならないかと努力したほどだ。

それが間違いだったのだと、今は思う。

能力を使おうとさえしなければ、こんなことは知らずに済んだのに。今もなにも知らないで、父を尊敬していられたはずなのに。

「くそ…………っ」

能力を使えるようになりたくて、なんの糸口もないところからトキワの能力者たちを探し出して、色んな話を聞いて。

カケルの身長が昔から低い原因がわかってしまって軽く絶望したりもしながら、それでも能力を使うために色んなことを調べた。

その中で、ある男がカケルに言った。

『そう言えば昔、トキワの能力者で人間を滅ぼそうとした男がいたなぁ』

『クチバの大会を見に行っていたんだが、そう、それはハクリューに乗った男だったよ』

そのときはなんとも思わなかった。父であるとさえ思わなかった。それでも、なにかの糸口になるかもしれないと思って、どの時期の話かを聞き、新聞を調べた。

新聞には、こんな話があった。

ある大会中、ハクリューに乗った男が町に攻撃をしかけ、多くの家屋を破壊したという事件。

カントー各地に大量のポケモンが現れ人々を攻撃するという事件。

その事件の二年前にリーグを優勝していた少年の失踪事件。

それぞれは繋がらなかった。ただ、ハクリューに乗った男というのは気になっていたが。

昔、大量のポケモンたちをトレーナーなしで指示通りに動かす方法も、父から聞いたことがあったが。

それでもまだ、それが父であるとの確証はなかった。

それらを結びつけてしまったのは、一人の女性に出会ってからだ。

「こんにちは。突然すみません、少しお話を聞きたくて来たのですが……」

「――――…………ワタ、ル…………?」

何人ものトキワの人に話を聞いた末にたどり着いた、存命の能力者最後の一人。金の髪をゆったりとしたみつあみにした、小柄な中年女性。名前を、イエローと言った。

彼女はカケルの顔を見た瞬間、困惑と警戒の色を強く示しながら、父の名前を呼んだのだ。

カケルはよく父に似ていると言われる。父の若い頃の写真を見ると、本当に髪の長いときに撮った写真だろうと信じてしまいそうなほどに似ている。声も、よく電話で間違えられるくらいだ。

だから彼女は、そんなわけない、と呟きながらカケルの顔を見ていた。若い頃の父を、知っているのだ。

「どうして…………」

「俺は……ワタルじゃ、ありません」

急激に脳内で広がっていく疑惑に、乾く口でなんとか声を絞り出す。イエローはどう反応していいのか分からない様子で固まっていた。

「俺は、カケルって、言います。トキワの能力について調べてて、話を――聞きに、きました」

「…………」

「でも、それ以上に、ワタルの話が聞きたい。親父は一体、なにをしたんですか」

そんなに警戒をするだなんて、あなたに何を。

その言葉に、イエローが取り繕ったように笑ってなんでもないと、忙しいからと扉を閉めようとするのをカケルは懸命に阻止した。

「教えてください、親父は人を滅ぼそうなんてしてませんよね!?」

カケルの叫びの前に、彼女は酷く苦しそうな顔をして――それが、すべての答えになってしまっていた。

カケルの力が緩んだのを見て、彼女は扉を閉める。一人、取り残されたカケルは力なく座り込んで、涙を流すしかなかった。

その晩にもカケルは父を問いつめた。

新聞記事の話を、やったのかと。父は否定をしなかった。それが、カケルの荒れた原因である。

――その日からカケルは、“良い息子”をやめた。

家にはほとんど寄りつかず、たまに着替えと飯のために帰るくらいで、大体を友人の家を渡り歩くことで済ませていた。アルバイトのおかげで、少なくとも食べ物に困ることはない。

たまに父とはち合わせては怒りに気が狂って暴れ回り、果てに飛び出すようなことを繰り返していた。今日もそうだった。もう、二年ほどになるだろうか。

どうしていいのか、わからないのだ。

父を尊敬していた心をどう昇華させたらいいのかわからないのだ。

これだけ暴れていても、まだ嫌いとは言えないのだ。だから苦しくて、だからどうしても会いたくなかった。

ある程度冬の夜風で頭が冷えたのを感じてくると、カケルはまっすぐある家に向かう。

少し広くて、田舎町らしくない洗礼された様相の家。父と喧嘩したあと、カケルはいつもここに来る。

ぴんぽーん、と。インターホンを鳴らせば、中から出てくるのはカケルよりもいくらか小柄な中年男性。赤い髪に銀色の瞳が様になる、整った顔立ちをしている男。シルバーだ。

「……こんにちは」

「また来たのか……。入れ」

呆れたように彼はカケルを家の中へと入れてくれる。

もはや、理由も聞かない。

「あら、カケルくんいらっしゃーい。晩ご飯ちょうどこれからだったのよー」

「あ、カケルくんだー」

リビングまで行けば、主婦の似合わない美貌を持つブルーと、いつみても天使か妖精のような愛らしさの娘、フェルメールがいた。

フェルメール――メルは、カケルの姿を認識したあとはまたすぐにテレビに向きなおってしまう。大きなテレビの目の前に体育座りをして、行儀悪く見ているのは大好きなタウリナーΩの特撮版だった。

その隣で、小さなニドラン♂が退屈そうに目を閉じている。

「こらメル、ちゃんと離れて見ろって言ってるだろう」

「やだー、なにするの今いいところなのに!」

「そうだぞカケル、近くで見るから楽しいのに」

「あんた父親なんだから叱れよ」

ブルーが食事を作っている隙に見ていたらしい。メルを抱えあげてソファまで下がらせると、父娘そっくりのむくれ顔になる。

シルバーはカケルの小さい頃はまだ青年とも言える年だったからか、今も年の離れすぎた兄貴分のような感じで、カケルも気楽に一緒にいられるのだ。

昔から、父親の弟分だったよしみで良くしてくれている。家から飛び出してきても、理由も聞かず受け入れてくれるほどに。

「カケルくん今日はとまるの?」

「泊まっていいんすか?」

「どうせそのつもりだったんだろう、聞くな」

「やった、カケルくんいっしょにおふろはいろう」

「それは一人で入れ」

膝の上でごろごろとじゃれつきだす小さな幼なじみは、カケルが来たとたんタウリナーΩもどうでもよくなった様子だった。毎日のように見ているからだろう。

頭に血がのぼった後、こうしてメルと遊んでいると全部が馬鹿馬鹿しくなる。だからつい、受け入れてくれるこの家に来てしまうのだ。

「カケルくーん、ご飯冷凍のでいいー?」

「あ、すいません。俺のはなんでもいいんで」

「ついでに残り物も片しちゃってくれない? 食べきれないのよねー」

ブルーはというと、出来た食事を持って来がてらカケルに食事の確認を取る。突然押し掛けたというのに、平然とご飯の用意をしてくれるのが温かい。

この家は、カケルにとって最後の砦だった。

父に反抗をしながら、それでも父とは縁を切れない、そんなカケルに大切な場所だった。

+++

食事の後、メルを風呂へと送り出す。最近風呂でのぼせて倒れるようなことがなくなり、ついに一人で入れるようになったメルは意気揚々と行ってしまった。

体が極端に弱いメルだが、それでも成長と共に気にかけなくていいことは増えている。

そのことにしみじみとしていると、いつの間にか家事を終わらせてリビングに戻っていたブルーがぽつり、こんなことを言い出した。

「ねぇ、カケルくん。クリスマスはおうちで過ごす気はない?」

その言葉に、シルバーがしまった、なのか言いやがった、なのかわからない顔をする。そんなことはお構いなしに、ブルーは穏やかな顔で続ける。

「せっかくのクリスマスだもの。ね、たまには家族で」

「……嫌ですよ、そんなの」

「プレゼント用意して待ってるわきっと」

「誕生日も祝ってもらってないのに、そんなことするわけないだろう!」

荒らげた声に、すぐ口を塞ぐ。決まり悪くカケルが謝るのに対し、ブルーは怯えた顔一つせずカケルを見据えていた。

どうしようもなく、大人と子供であることを理解して、黙り込む。

「たまには、お父さんと話した方がいいんじゃない?」

「嫌です」

「でもあまり家を出てるのは……」

「あんな犯罪者と一緒になんて暮らせない!」

ブルーとシルバーが、どうしてか酷く傷ついた顔をしたのを見た。

「なんでそんなこと言うんですか!」

「だって……カケルくん、最近うちに来る回数増えてるでしょう」

「迷惑だったなら謝ります。今すぐにでも出ていきますから」

「そうじゃない。ただ……」

「ただってなんだよ! あんな男と話すことなんてなにもない!」

それでも、蒸し返された感情が止められず、カケルの口は勝手に言葉を吐く。

この居場所を、無くしたくはなかったのに。

強く机を叩いて、カケルの口は荒々しい言葉の嵐を吐き出してく。

「あの男は! 自分の能力もポケモンの力も悪用して、ポケモンのためと嘯きながら人を滅ぼそうとした悪人なんだ! それを自分で認めておいて、なかったことのようにいい人ぶってる態度が気に入らないんだ! 犯罪者がなんであんな堂々としていられるんだ!? あんな男と暮らすだなんて、俺は耐えられない!!」

この二年間、父への怒りをこの二人にぶちまけたことだけはなかった。

ついに、言ってしまった。

ざぁぁ、と勢いよく血の気が引くのと同じように、二人もいやに顔色が悪かった。まるで心当たりがあるかのように。

部屋を、沈黙が支配する。テレビの音がやかましくて、カケルは乱暴に消した。

「――カケルくん? なんでおこっているの?」

そんな沈黙も知らず、風呂を上がったメルがぺたぺたと音を立てて戻ってくる。重くてドライヤーが持てず、乾かせなかった髪をぐしゃぐしゃとタオルで拭きながら。

怒っていることを認識しながら、それをまるで意に介さず、彼女の大きな銀の目はカケルを捉える。

「おふろあいたよ」

「……ああ……」

「メル、少しお父さんたちは話をしているから、ニドランと部屋へ行ってなさい」

「おとうさんがはんざいしゃだってはなし?」

どこから聞いていたのだろうか。

いつもメルの銀の目は、隠し事を許さない。

それさえも今は鬱陶しくて、カケルは苦い顔をする。明らかに睨んでいるのに、彼女は恐れる様子もない。

「それがどうかしたの?」

人の大切なことを、なんでもないことのように言う。

まだ八年しか生きていないくせに、やたらと独特な価値観で、同情も共感もせずにメルは言ってのける。

その態度がたまらなく気に入らなくて、カケルはメルの胸ぐらを掴んで持ち上げた。

「なにも知らないガキは引っ込んでろよ!!」

「やめろカケル! メルに当たるな!!」

「メル!!」

メルの目に怯えが走っても怒りは収まらなかった。乱暴にメルを奪われたかと思うと、左頬に衝撃が走る。シルバーに殴られたのだと理解するのにそう時間はいらなかった。

母に抱きしめられ、父に庇われ、手持ちのポケモンが騎士のように立ちはだかるのを見ながら、メルはカケルから目を逸らさない。

その大きな銀の目には怯えと驚きの色を強く映しながら、それでも彼女はカケルを見ていた。

責めているのではない。非難しているのでもない。傷ついているわけでもない。

ただ彼女は、カケルのことを見定めていた。

それがたまらなく気に障った。

「お前なんかにわかるか! 親が犯罪者な子供の気持ちなんか!」

「わからない」

「見てんじゃねぇぞおい!!」

「わからない。カケルくんがそんなにおとうさんをいやがるきもち」

怯えながら、メルはそれでも静かな声でカケルに話しかけてくる。

こんなに怒鳴られて、怒られるだなんて思ったこともなくて。だから凄く怯えているのに、どうしてこの娘はそんなにまっすぐに見つめてくるのだろう。

どうして。

「だってカケルくん――おとうさんのことだいすきなのに」

「うるせぇぇぇぇえええ!!!」

一番言われたくないことを言われて、カケルは目の前を真っ赤に染められながらメルにつかみかかろうとする。今すぐにこの子供の口を塞がなければならない。

塞がなければならない。

必死に他人に当たるのを耐えていたはずの心があっと言う間に崩壊していく。

力で負けるはずのない、シルバーにどうしてか押さえ込まれたまま、メルを睨みつける。

メルは続ける。

「どうして、おとうさんを好きなままでいられないの? どうして、わるいことしたらぜんぶきらいにならないといけないの? そんなことないと思う。カケルくんはおとうさんがだい好きだって、わたし知ってる」

「やめろ!」

「むりにきらわなくていいと思う。カケルくんむりしてる。わるいひとをせめないといけないって、くるしんでる。おとうさんのことだい好きなのに」

「やめろよ――――!!」

シルバーに押さえ込まれながら、カケルは叫ぶ。

それ以上言わないでほしかった。カケルは誰にも責められないままでいる父を断罪するべきなのだ。尊敬していたが、もう尊敬するべきではないのだ。

そうやって別の道を用意しないでほしいのだ。

あんな人がチャンピオンなどやっていていいわけがない。どんなに慈善事業をしていたとしても、それだけで罪は雪がれない。断罪が必要だと、思うのだ。時効などと許されていいはずがないのだ。

カケルが許しては、いけないはずなのだ。

「おとうさんがわるいことしても、おとうさんを好きなカケルくんのきもちはわるいものじゃない」

「…………!」

「カケルくんどうしてそんなにじぶんをせめてるの?」

「――――――――!」

許しては、いけないはずなのだ。

だから嫌いになりたくて、嫌いになりたくて。

どうしても、なれなくて。

「カケル」

気がつくと、シルバーの押さえ込む力はなくなっていた。呆然と立ち尽くすカケルをそっと抱え込んで、優しく言う。

「今日は寝よう、カケル。話は、聞くから――」

はい、と答えようとした。

その声はなにか言葉にならないような音となってたち消えてしまって。そこでようやく自分が泣いているのだとわかった。

銀の目は少し驚いたようにカケルを見つめて、それ以上言わなかった。

+++

「……昨日は、すみません」

一夜が明けて。

なんとか頭を冷やしたカケルは、シルバーに頭を垂れる。早朝に食事を取りながらカケルを見つめるシルバーもブルーも、戸惑ったような顔のまま曖昧に笑う。

メルは、まだ眠っている。

「……まぁ、メルも逆撫でるようなことを言ったからな」

「……メル、昨日の晩どうでしたか。うなされてたり、とか……」

「大丈夫よ。ちょっと怯えてたけど、寝る頃には、すっかり」

その言葉を聞いて、カケルは少し安心する。

あまりに大人げなくメルに八つ当たりしてしまったのもあるが、今までろくに怒ったことがなかったから、怯えたままトラウマにでもしたらどうしようかと思っていたのだ。

メルにもまた、謝らなければならない。

「なら、よかったです。…………あの。おじさんとおばさんは、親父のこと、知ってるんですか」

「ああ、知っている」

「知ってて、師事したんですか」

「そうだ」

以前から聞きたくて、聞けなかったことにシルバーは当然のように返事をする。ブルーもまた、同じように。知っていたと返す。

「どうして?」

「すぐに強くなる必要があった。そこに過去の罪は関係ない」

「おばさんは、なんで今も親父と付き合えるんですか」

「今は悪い人じゃないから」

ブルーはなんでもないことのように言う。

シルバーの事情はわからないが、強さだけに着目したのならそういうこともあるかもしれない。だがブルーの話はわからなかった。過去に大罪を犯した相手を、愛娘と対面させてもいいものだろうか。

カケルの眉間にしわが寄るのも気にせず、ブルーは続ける。

「ねぇカケルくん。罪を憎んで人を憎まずって言うでしょ」

「…………はい」

「無理して全部憎まないでいいと思うのよ」

ブルーは静かに、昨晩のメルと同じことを言う。

――罪を憎んで人を憎まず。

罪を犯した人自身までを憎んではならない。ことわざなのか、教えなのか、カケルにはわからないが。

頭が冷えた今は、それがすとんと入ってくる。納得まではできないが。

それを実行できるほど、カケルは大人ではない。

「好きなところは好き。嫌いなところは嫌い。なんでもそうよ。全部嫌いなわけじゃないでしょう。カケルくん、どうしても許せないのはなに?」

「…………親父がチャンピオンを、していること」

「なら、それだけ許さなければいいわ」

返事はしなかった。

それを意に介さず、ブルーは続ける。

「明後日、クリスマスでしょう。ね、一度おうちに帰ってみたら」

「……なんで、そんなこと言うんですか? 今まで言ったことないじゃないですか」

「まぁ、それは……帰ってみればわかる」

隠し事の下手くそそうなシルバーが、固い顔で笑う。ブルーはにこにこと笑顔のパワーでごり押ししようとしていたから、カケルは仕方なく「はい」と呟いた。

「あ、シルバーそろそろ動かないと遅刻するわよ」

「しまった……っ」

「会社員は大変だなぁ」

話が一段落ついたところで、ブルーが促すとシルバーは慌ただしく動き出す。父親が自由業のような人であるカケルには、会社員のせせこましさに同情をするばかりだった。

その昔、父から聞いた話では世界を救ったような人たちだと言うが、ここまで所帯染みていると信じる気にもなれない。

そうシルバーがどたばた玄関を飛び出していくと同時に、メルがリビングの扉を開ける。

「…………」

足下のニドラン♂がカケルから庇うように前に出る。

昨日あれだけ強く当たったのだ、警戒されるのも無理はない。

ただメルの目には昨日のような怯えは見られなかった。静かにカケルを見据えて、こちらの出方を待っている。

「メル」

「…………」

「昨日はごめんな」

できる限り優しい声で言葉をかける。それにメルは返事をせず、足下を阻むニドラン♂を下がらせて、まっすぐにカケルの元へと歩いてきた。

座っているカケルにその小さな体を預けようと腕を差し出してきたから、腕を広げてみると甘いミルクの香りが飛び込んでくる。

いつ抱きしめても折れそうなほどに細くて、不思議に柔らかい、小さな体。そんな彼女に乱暴をしたことを思い出すと、今すぐ身を投げ出したいような後悔が襲ってくる。

「ごめんな、メル……」

「いい」

いつもと変わらない調子で、メルは懺悔を許す。

「カケルくんがなやんでるの、わたしわからない」

「うん」

「好きならそれでいいと思う」

どうして苦しんでいるの。と、昨日と同じことを繰り返す。

きっとどんなに説明をしても、この妖精にわからせることなどできないだろう。普段人と切り離されて生きているせいで、すっかり独特の世界観を築き上げてしまっていて。年を重ねるほどに世界から乖離していっているのをカケルは見ていて感じていた。

銀の目は心から不思議そうに、淡泊にカケルを見つめている。それが全てを見通しているようで、今は酷く居心地が悪く思えた。

「そう簡単にはいかないんだ」

「ふぅん……」

「お前は、お父さんとお母さんが悪いことしてたらどう思う?」

「わるいことって、たとえば?」

「たとえば……人を殺したり、とか」

ふと思って、カケルはそう問うてみる。

まだ人の生死を理解しているのかわからないが。つい、そんなことを言う。八歳には重い例えだろうか。

理解したのかしないのかわからないメルは、少し考えた後答える。

「わるいことはわるいことだから、怒る。……でも、わたしにはいいおとうさんとおかあさんだから」

メルは答える。

――それでもきっと、好き。

「…………」

「カケルくんのおとうさんは、カケルくんにわるいひと?」

メルらしい自己中心的な答えと問いに、カケルは答えなかった。

そうか、と呟いたきり小さな体をぬいぐるみのように抱きしめて黙り込む。メルが身じろぎもしないから本当に人形のように思えて――その心臓の音を聞いて生きていることを確認した。

+++

――クリスマスはおうちで。

ブルーに言われてから、結局一度も家には帰らなかった。メルの家を後にしてからも、やっぱり友達の家やバイトなどで夜を明かして家に近寄ろうともしなかった。

それなのに、二十五日。ふらりと家の前に来てしまったのはなにかの呪詛せいだとカケルは思う。

着替えはまだある。腹も空いていない。

だから見慣れた自宅の扉を叩く必要はない。

家の前にいても、誰が気付くわけでもない。父と顔を合わせたらまた荒れてしまいそうで、入りたくもない。

「…………」

だから帰ろうと思った。どこに行くあてもないが、少なくともここはもうカケルの帰る場所ではなかった。

いつまでこんなことを続ける気だろうとは、思う。それでもカケルは、曲げるわけにはいかないのだと拳を握る。

せめてどこか、冷たい夜風から身を守る場所を探そうと振り返った。

そのときだった。

「――――――――!」

「来い」

「離せ、おい!!」

いつの間にか背後にいた父ワタルに腕を取られて、カケルは反抗の気が湧く前に引きずられる。

ワタルは家の中には入らずに、車の閉まってあるガレージへとまっすぐに入っていく。わけもわからず、必死に腕を振り払おうとするも、いつもより強く握られた腕はほどけなかった。

「なんなんだよ……――――ッ!!」

「これを」

「…………!?」

見慣れた車の隣に、初めて見るバイクがある。

否、カケルにとってはよく見慣れたバイクだった。

ずっとカケルが憧れて、それを買うのが昔からの夢だった、ネイキッド型のバイク。

なんとかお金を貯めて教習所に行って、免許を取ったから次はバイクだと、今までがんばってきていて。

それが今、目の前にある。

「……ずっと欲しがっていただろう」

「なんで……」

「すまないな、カケル」

ワタルが、切なく笑う。

懺悔のつもりなんだろうか。贖罪のつもりなんだろうか。

こんな賄賂でカケルが釣られると思っているんだろうか。

「免許を取った祝いに買ってあったんだが、なかなか帰ってこなかったからな」

「…………くそおやじ……」

「悪いことを、したよ」

カケルの手に、なにかを握らせてくる。開いてみれば、鍵があった。バイクの鍵だと、すぐにわかった。

――カケルくんのおとうさんは、カケルくんにわるいひと?

メルの言葉がフラッシュバックして、ぼやけた視界に鍵が映る。

そんなわけがない。これまでずっと尊敬してきた父だった。どんなにカケルが責めても罪を認めて、受け止めるような父だった。殴り合いの喧嘩もしたが、それだって父が怒っていたのは母に乱暴をしたことだった。

カケルの反抗を父はまるで責めなかった。

こんなことをしてくるワタルはずるい。

溢れでてくる涙の中で、カケルは思うしかなかった。

――それでもきっと、好き、と。

「こんなことしてくんなよ……っ!!」

どうしようもなく好きなのだ。

どうしようもなく好きなのだ。

好きだったから許せなかったし、好きだったから許してはならないと思ったのだ。だがもう無理だった。この怒りはどうしても憎悪になり得なかった。

――人を憎んで罪を憎まず。なんて言葉すら当てはまらない。カケルには父を憎めないのだ。

降伏をするしかなかった。やはりどうしても父が好きだった。

「俺はあんたのしたことを許してなんかないんだぞ!」

「許されるようなことをしたと思ってはいない」

「ならなんで」

「親が子供にプレゼントを与えることに理由なんてない」

「反抗しててもか」

「反抗しててもだ」

いつの間にか並んだ背で、カケルはワタルの顔をまっすぐ見つめる。

これ以上は憎めない。もう降伏をしよう。

ブルーは言った。許せないことだけを許さなければいいと。

「俺は、あんたのしたことを許せない。たとえ時効になろうと、俺だけはあんたを許さない」

「……ああ」

「だからあんたがチャンピオンなんてやってることが許せない。それは犯罪者のやっていい仕事じゃない」

カケルはどんなに父を尊敬していても、これだけは譲れなかった。

チャンピオンは栄誉職。最も強く、誇れるトレーナーがなるべきなのだ。地方の顔である存在が、そんな人間であっていいはずがない。

だから、カケルは宣言する。

「だから俺は――あんたを倒して、チャンピオンから引きずりおろしてやる!!」

チャンピオンに憧れはない。なりたいと思ったこともない。

だが父が誰かもわからぬ馬の骨に負けるくらいなら、自らの手でその地位を奪ってやるのだ。カケルがワタルを断罪するのだ。

それがカケルには許されるはずだ。そしてできる自信があった。

「三年後のチャンピオンリーグで首を洗って待っていろ」

「……そうか、それは楽しみだ」

涙を拭って睨みつける。

チャンピオン・ワタルは、不敵に笑ってその宣戦布告を受けた。

そして、ガレージの出入り口へと歩いていく。

「帰らなくてもいいが、せめてお母さんには謝れよ」

「……もう、帰るよ。お袋にも謝る。壊した家具も買う」

「子供がそんなことしなくていい」

「うるせぇ、なんでもかんでも甘えてられるか。反抗期は終わりなんだよ!」

「反抗期ってそういう終わりをするものだったか?」

ワタルの後ろをついて歩いて、カケルは憮然と返事をした。こうやって話をするのは二年ぶりだろうか。

ワタルが少し、うれしそうに笑うのが照れくさかった。

「いいんだよ、反抗する気が失せたから、もう終わりなんだ」

「そうか。……おかえり」

「――ただいま」

玄関を開けて、父が言う。

それにカケルは、おだやかに返した。