ふたご島

グレン島には二種類の行き方がある。

一つは連絡船だ。通常はこれで行く。数も少なくないから、不便なルートではない。

もう一つは、ポケモンで航海をしてふたご島を経由して向かう方法だ。こちらだと時間がかかるが、お金はかけずに済む。空を飛んでも似たようなものだ。

その中でカルミンは今、どちらも取れないでいた。

というのも、お金もなければ波乗りのできるポケモンも持っていなかったのだ。

空を飛ぶならプテラもいるが、背中に乗れない関係上、荷物を背負ったまま飛ぶということが非常に難しく、新たに飛行タイプを捕まえるか水タイプを捕まえるか、あとはなみのりの秘伝マシンを見つけるかという三択になっていた。

だからカルミンは、秘伝マシンを見つける方法を取ることにした。

そうして、朝からセキチクの海に潜り込んでいる。

秘伝マシンがあれば、新たに捕まえたガルーラならなみのりが覚えられるから、それでふたご島に向かうことができるからだ。

二、三日がんばって教えればなんとかできるようになるかもしれないが、どうせなら時間は惜しみたい。そういうわけで、秘伝マシンがあると言われるセキチクの海を潜っていた。

昔から、ここで秘伝マシンを探しては手持ちに覚えさせて、また捨てていくトレーナーが多いらしい。

捨てていくというのは言い方が悪いだろうか。いわゆる伝統なのだ。これからここを訪れる次のトレーナーのために、秘伝マシンを海のどこかに隠していくのは。

(しっかし、本当にあるんだろうな……?)

今日一日、見つからなければ諦めるつもりではあるが。

朝から潜り続けて三時間。いい加減体も冷えて辛くなってきた。

再三、場所を変えて潜ってみるが秘伝マシンは見つからない。ポケモンも持って来れないから野生のポケモンとの遭遇もおっかなくて仕方がなかった。

時折、大きめの岩を見つけては体を太陽で暖めて、また潜るを繰り返す。

気が付けばセキチクの浜も見えなくなってきた。せめてプテラだけでも空からついてきてもらうんだったか。

(次潜ったら諦めようかな……)

空腹を感じてきて、最後だと腹を括る。

何度潜ったか知らない青の中へと飛び込んで、メノクラゲにぶつからないように、丁寧に海の中を下へ下へと降りていく。

やがて岩肌が見えてきたところで、視界の隅になにか異物を見つける。ようやく、秘伝マシンを見つけたのだろうか。

確認しようとした矢先、なにか大きなものに体をぶつける。メノクラゲやドククラゲとは違う、もっと質量のあるなにか。

オレンジ色のその巨体に、嫌な予想が脳裏を裏切る。頭の方を見ると、怒りに顔を染めたカイリューがカルミンをじろりと見ていた。

腰に手を回しても、そこにはいつもあるボールはない。誰も連れては来なかった。

しまった、と思う前に――カイリューの腕がカルミンの腹を強打する。その重みに、細い体が耐えられるわけもなく。

無力に意識を失おうと、口から空気が逃げ出していく。苦しいと思う暇もなく、ただただ力ない体が投げ出される。

――死ぬのかな……。

差し込む太陽の光と、逆光で朧気なシルエットに人魚を見ながら、ついにその視界は閉ざされた。

+++

ざざ――……。ざざ――……。

波の音が聞こえる。

日差しが暑く、頭部の下もやけに温かい。

それを認識した瞬間、急激に襲い来る息苦しさに思い切り咳き込んだ。

「がぼっ、げ……っ、ごほっ、ごほ……っ!」

「カルミン、気付いた!?」

勢いよく吐き出される海水と、それと一緒に迫り出してくる胃液と、瞬間に巡り出す酸素にカルミンは四つん這いになって咳き込み続けた。その背中を撫でる手だけが優しく、カルミンを癒す。

やがて落ち着いた頃に顔を上げると、そこには浅葱色の丸い瞳が、カルミンを心配そうに覗き込んでいた。

「大丈夫? 落ち着いた?」

「だい、じょうぶ……」

「よかった……」

柔らかに、女性的に微笑む姿に思わずどきりとする。目の前にサツキがいる。それだけで頭が混乱するのに、あまりの近さに上手く言葉が出てこない。

それから、サツキの体が水に濡れているのに気付いた。ジャケットを脱いで、いつも下に着ている水着だけだった。

「俺、海で……カイリューに……。……サツキが助けてくれたの?」

「ううん。浜で倒れているのを見つけたの」

「水着なのは……」

「さっきまで泳いでたんだ」

カルミンが無事でよかった、と微笑む姿に違和感を覚えながら、ここで嘘を付く理由もないので、そうかと納得する。

気を失う前、人魚の姿が見えた気がしたのだが。幻覚だったのだろうか。

辺りを見回してみると、背後に見覚えのある町がある。そばにはカルミンの服と荷物があり、どうやらセキチクの浜辺らしかった。

これでは秘伝マシンも探し直しだ。

ふぅ、とため息をつくと、視界の端に相棒の姿が見えた。

ごめん、見つけられなかった――と口を開こうとする前に、相棒カラの骨が大きく振り上げられる。

「いっっってぇ!? 何すんだよ!?」

「カラ、心配してたんだよ? ずっと側にいてくれたのに、無視するから……」

「無視してない! 気付いてなかっただけ! いてぇ、ボカボカ殴るな!!」

頭上からガンガンと打ちつけられるホネをなんとか掴み、力比べのようになる。ポケモンの方が当然力が強いので、カラが無理矢理ホネを抜き取り、その反動で最後に大きい一撃を浴びせてくる。

ガンッ!! と頭まで揺さぶられるような衝撃が左肩にかかると、しばらくしてから言いようのない痛みがこみ上げてきた。のたうち回るカルミンに対し、満足がいったのかカラは呆れたような目で見下ろしてくる。

「~~~~っ、この野郎今度覚えておけよ…………っ!!」

「大丈夫、カルミン……」

サツキは男同士のやり合いに、戸惑うことしかできないらしい。ひと段落ついたところで、カルミンの痛む肩を優しくさすってくれる。

その一連の様子に、カルミンは酷くクラクラしていた。

今まではもっと活発な女の子のように見えていたからだ。確かに怖いものを嫌がる少女的な面もあったが、運動が好きで、泳ぐのが好きで、そしてバトルに悩みバトルを思うその姿に、あまり少女性を感じたことがなかった。

だからだろうか。彼女の女性的な様子に、頭がついていかない。

「それで、カルミン。一体どうしたの? ポケモンも連れていかないで、あんな遠くまで泳いでいるなんて」

「ん? ああ……なみのりの秘伝マシン探してたんだ。このままじゃふたご島にもいけなくてさ」

「ああ、そういうことだったんだ。それじゃあ、あたしがなんとかしてあげるよ」

クスクス、とサツキが笑う。

その笑顔にようやく、カルミンの知っている面が見えた。

「とりあえずさ、まずはご飯食べよっか」

+++

セキチクのポケモンセンターに戻り、シャワーを浴びた後にご飯を食べる。

そうして、その腹休めの間に、ロビーではお互いの進捗報告と、これまでになにがあったのかを話していた。ヤマブキジムのバッジを手に入れただとか、幼なじみとした訓練の内容だとか、たった二週間会わなかっただけで、話せることはあまりに多かった。

そして目の前には、カルミンとサツキのポケモンが勢ぞろいしている。

「わあっ、ガルーラだ! 珍しいのに……よく捕まえたね?」

「もちろん、限界まで探し回ったからな! まる一日潰したんだぞ」

「それに、イブもエーフィになったんだねえ。ブーちゃんも負けてられないね」

カルミンの手持ちで、サツキの目に新しいのはガルーラ、エーフィ、サンドパン。彼らに丁寧に声をかけるのを見ながら、カルミンもサツキの手持ちを見る。

前回会ったときと、手持ちに大して変化はないようだった。少しカメールになったメーちゃんが大きくなったように見えるくらいだろうか。カラと仲良く遊んでいる様子が可愛らしい。

そして、気になる点が一つ。

「サツキ、まだ手持ち五体なの?」

「ううん、六体いるよ。この子は……」

腰につけたままのモンスターボール。それを少し触って、すぐにサツキは顔を上げる。

「そろそろ外に行こう。この子を紹介するから」

「え? ああ……」

言われるがまま、カルミンは立ち上がり手持ちたちをボールに仕舞う。

足の速い彼女に遅れないように再び海辺に立つと、サツキが海へとボールを投げ込んだ。

その中から現れたのは、白く細やかな毛並みを持った美しいジュゴンだった。そのシルエットは人魚のようで、気絶する寸前に見た気がする、あの人魚を連想させる。

泳ぐのが好きな、サツキによく似合うポケモンだった。

「この子はゴーちゃん。本当に、つい最近捕まえたんだけど」

「また水ポケモンか!」

「いやぁ、えへへ……なんでだろうね……?」

カルミンも地面タイプのポケモンを二体持っているからあまり人のことは言えないが。ただでさえサツキのパーティは電気タイプに弱いというのに、さらに水タイプを捕まえているのはどうしようもない呪いのようなものなのだろうか。

「で、ね。なみのり使えるポケモンがいないんでしょ。ゴーちゃん、貸してあげるよ」

「え?」

「あたしはミーちゃんがいるから。メーちゃんはまだ小さくて人を乗せられないけど……ゴーちゃんなら乗れるはずだよ。ちょっとコツがいるんだけど」

「……いいの?」

「グレンに行くんでしょ? あたしも行くところだから」

にこにこと協力を持ちかけるサツキに、なんだかオツキミ山でのことを思い出す。

あの時も、懐中電灯がなくてサツキに頼って山を抜けた。今度はサツキに頼って、海を越えようとしている。

なんの因果だろうか。困っているときに、ちょうどサツキがいてくれる。

「じゃあ……一緒に来てくれるか」

「もちろん!」

+++

カラと仲良くなったのは、カルミンがポケモンリーグを志すようになった後の話。

まだ相棒となるようなポケモンもおらず、バトルを上達させられるような状況でもなかったカルミンは、その頃は今できることとして、新聞配達のアルバイトで将来の旅費を稼いでいた。

カラと仲良くなったのは、なにがきっかけだったか。

カラは院でも人気者だった。クールで、優しく、気配りができるヒーロー。子供にもポケモンにも慕われている、そんな奴だった。

だった、が。カルミンはいつからか、カラの態度に周囲との距離が感じられるようになった。それは、自分も思っているような、周囲への拒絶感に似ていた。

だから、声をかけてみることにしたのだ。

誰もいない時を見計らって。

「よっ、カラ。お前と話すのは初めてだな」

カラは昔から、返事をしない奴だった。もしかしたら話せないのかもしれない。そのあたりの事情は、よく知らない。

胡乱げにカルミンを見上げるその目が、カルミンが世界を見る時の目に似ていた。

「俺はカルミン。レッドさんと、レックスに憧れて、ポケモンリーグを目指してるんだ! 今はまだバトルもほとんどしたことないんだけど」

カラは返事なく、反応もせず、ただ聞いていた。カルミンはそれに構うことなく話を続ける。

「俺さ、親いないんだよ。カラカラも、親がいない……んだっけ? 同じだな」

そこまで話して、ぴくりと反応がある。

この院に来るのは、みんな親のいない子供。わざわざそれを話す奴なんていない。カラは自分のような子供を、もしかしたら初めて見たのかもしれなかった。

今度は声を潜めて、聞いてみる。

「……なぁ、お前。ここが嫌いだろう」

そっと耳元で囁くように。

カラは返事はしなかったが、鋭くカルミンを睨み返してくる。それを見て安心した。

「――俺も同じだよ」

二人、睨み合う。

より声を潜めて、周囲に誰もいないことを確認してから、話を続けた。

「俺は、将来旅に出る。ポケモントレーナーになって、ジムを巡るんだ。11歳になる――10歳の夏に。つまり俺は、近い将来、必ず外に出る」

確定的な計画を、語る。

「お前を、外に出してやれる」

誰にも聞こえない声で。

ポケモンたちは、子供たちよりもここから出られるビジョンが少ない。基本的には院のポケモンで、外に連れ出せることが少ないからだ。

だが、トレーナーになるなら。特に仲のいいポケモンがいるなら。

話は違ってくる。

カラを出せるのは、カルミンだけ。

「俺と組まないか」

数秒、無音が二人を包んだ。

そしておもむろに、カラが右手の骨を差し出してくる。おそるおそる掴むと、カラが力強く頷いた。

……――契約完了。

「これから頼むぜ、相棒」

カラは返事をせず。ただ、無言で頷いた。

+++

「そうそう、その調子! カルミン上手だね!」

「はは、慣れればどーってことない……」

サツキはカルミンを見ていた。

ジュゴンの上に立ち、危なげなく“なみのり”をする彼は、初めてにしては筋がいい。水ポケモンの上に立つのは難しいのだ、大抵少しぬるぬるしていて滑るから。

それでも練習していて一度も落ちないのは、彼の運動神経がいいからだろう。サツキだって、一日かけなければ乗れるようにならなかったのに。

「さ、サツキ! 止まるにはどうすればいい――どわっ!」

「止まれって言えば……あーあ……」

最後の最後にカルミンが砂浜に投げ出される。

ジュゴンは意外にスピードを出す。その勢いでおもしろいくらいに宙に浮いて浜にのめり込んだ彼を起こしてあげると、少し酔ったのか顔色がやや悪かった。

「大丈夫?」

「うん、まぁ……」

頭の砂を払って、その背中をさすってあげると少し落ち着いたように息を吐く。

そんなカルミンを横目に見ながら、放り出したジュゴンのゴーちゃんはというと、なに食わぬ顔でサツキの元に来る。サツキと一緒に泳ぐ時は丁寧に止まってくれるのだが、突然他の人を乗せることになって不機嫌なようだった。

「ゴーちゃん、カルミンに乱暴しちゃダメだよ?」

注意に出した左腕をすり抜けて、体をすりすりしてくるゴーちゃん。かわいいが、捕まえたばかりなのになつかれすぎている気がしなくもない。

「……サツキ、そいつほんとに捕まえたばかり?」

「昨日一緒に泳いで、それで捕まえたんだよねえ。カルミンとも仲良くなってほしいなー?」

いやいやと首を振るゴーちゃんにサツキも参ってしまう。

ふたご島、グレンに行くまでの間貸すだけなら、サツキがゴーちゃんに乗ってカルミンにはミーちゃんに頼ってもらえばいい話でもあるのだが。

「この野郎~……」

「あはは……。……そろそろ、ふたご島に向かわないと、着く頃には日が暮れちゃいそうだよ」

「うん……あ、そうなると野宿の準備がない」

「あー。軽くなにか買ってこないとねえ」

普段はポケモンセンターを渡り歩いていて、野宿などほとんどしない。寝るのはもう雑魚寝で諦めるとしても、食事を買わなければなにも持っていなかった。

「缶詰でも買ってから行くかー」

「でも野宿かあ。あたし初めてだ、ちょっと楽しみ」

くすくす笑って、ポケモンたちをボールに戻す。

そうして、ふたご島の横断には一日かけることにして、カルミンと二人で明日の夜までの食料を買い込む。

子供二人分とはいえ、四食もあると量も馬鹿にならず。特に重い飲料はカルミンのプテラ、テーラに持ってもらうことにして、ようやく二人はふたご島へと向かった。

海を図鑑に入っている地図アプリを頼りに横断すること数時間……休むような場所もなく、日暮れの頃にみんなでくたくたになりながら海辺へとたどり着いた。

「つ、疲れた……」

「やべー、酔った……おえ……」

ミーちゃんもゴーちゃんもテーラも、何時間も人や物を持ったまま泳ぎ飛び続けてすっかりへばっていた。

ずっと座っていただけのサツキは一番疲労が少ない――はずだが、動かなかったせいで体がばきばき言う。何時間も気を張ってなみのりをしていたカルミンはというと、地上に立った違和感に一気に酔いが来たらしい。吐きこそしないが随分と顔色が悪かった。

そんな彼らに、テーラの持つ袋からペットボトルを取り出して水を配る。

「これ、ふたご島横断に一日取って正解だったな……」

「うん……散々歩いた後に海渡るのは無理……」

はぁ、と二人で息を着いたところで、いつの間にか出てきていたカラが、サツキにコップを差し出す。

中身は水だ。

「くれるの? ありがとう、カラ。そういえば、飲むの忘れてた」

水を配っているときに、自分の分を忘れているのに気付いてくれたらしい。カラは返事をしないまま、サツキに渡すとクールに他のポケモンの様子を見に行ってしまう。

つくづく、しっかりした子である。疲れてうつ伏せに転がっていたミーちゃんを仰向けにしてあげたり、苦手な海に近づいてゴーちゃんにご飯を運んであげたり。

「カラは偉いねえ。ありがとう」

「世話焼きなんだよ。じゃー飯にすっかー」

手持ちを大勢出すと、静まった浜辺は驚くほど賑わう。ふたご島は無人島なだけに、貸し切りのビーチでもあるからバーベキューかなにかだと思えばテンションも上がる。

イーブイのブーちゃんは、エーフィに進化したイブと仲睦まじく毛繕いをし合っていたり。カメールになり、少し成長したのをカラに褒められているのか、嬉しそうなメーちゃんがいたり。

サンドパンになったパンがエレブーのレキと一緒にピーちゃんにちょっかいをかけたり。テーラに珍しく畏敬の念を表しているオニドリルのオーちゃんがいたり。

みんな、好きなように過ごす中、サツキとカルミンはそっと薪を拾いにそこから離れる。

ふたご島の内陸は森林になっている。薪を拾うには苦労しないが、日暮れ時では昼の森も躊躇するサツキには恐ろしいなんてものではなかった。

「サツキ、別に待っててもいいんだぜ」

「ううん、大丈夫……」

恐ろしい森の入り口にサツキは恐怖する。それでも行こうと思えるのは、カルミンがそこにいるからだ。

少し遠慮がちに手を握ると、迷わず握り返してくれる。カルミンのそういうところが、落ち着けるから一緒に行けるのだ。

「今日はありがとな。ポケモン貸してくれて」

「ううん、困ったときはお互い様だよ。あたしもちょうど行くところだったし」

「船で行こうと思ってなかったの?」

「カルミンがいるなら、あたしはカルミンと行くよ」

友達なんだから。当然でしょ。

そう返すと、カルミンは少し照れくさそうに素っ気なく返事をするだけだった。いつもびっくりするようなことを言ってくるくせに。

「明日、俺の誕生日なんだ」

「そうなの? おめでとう!」

「うん。……その日にサツキと会えてよかった」

ふ、と。

どこか切なげな笑顔でカルミンは言う。

誕生日だと言うのに。心がざわりと蠢いた。

まるでなにかを、決意したような。

「さ、薪拾おうぜ。このへんいっぱい枝落ちてるし」

「う、うん……」

ぱっと離される手に、応じてよかったのだろうか。

なにもなかったように枝を拾い始める彼の背中に、サツキは言いようのない苦しさを感じた。

+++

二人で、みんなで、ご飯を食べて。夜も更け、疲れきった日に寝静まるのは早かった。

森の入り口の、いい具合に葉が陰になりそうな場所を選んでビニールシートを敷き、二人は横に並んで就寝を取る。猛暑の夜の割には、森から来る冷気のおかげで眠りやすい夜だった。

そんな中で、そっとカルミンは起きる。

隣で寝ているサツキが、すっかり寝落ちたのを確かめて静かにビニールシートを出る。

きれいな月夜だった。カルミンの髪と同じように、オレンジ色を帯びた月が夜空に輝いている。

もう日付は跨いだだろうか。八月五日。カルミンの誕生日。

彼にとって数少ない、奪われることのない自分だけの日。

波の音だけが世界を包む中で、カルミンは相棒を隣に出す。誰に言うでもない、静かな声で、彼は独り言のように呟いた。

「本当は、リーグが終わる頃にお前を逃がすつもりだった。逃げられたってことにして」

その言葉に、カラはなんの反応も示さない。

「でも、別に誰かに預けてもいいんじゃないかって、少し思うようになった」

彼らの目線は交わることなく、共に月を見上げているばかり。静寂の包む二人の姿は、けして寂しいものではない、信頼に溢れたものだった。

「お前が、トレーナーにつくことを望むんなら」

返事はない。

ただ、カラはカルミンの手にそのホネを握らせる。カルミンにはそれで十分だった。

「わかった。それじゃあ、明日」

相棒をボールに戻し、カルミンは再び寝床へと戻っていく。

その後ろ姿を、岩場の陰で眠っていたジュゴンは、ただ、見ていた。

+++

今日も天気は快晴。世間は暑いというわりに、この島は涼しく、森の中はいっそ寒いとさえ言えるような温度だった。

元々、伝説のポケモン・フリーザーのすみかだとされているこの島。二人で少し探してみるも見つからなかったが、あちこちに凍った木々があるからその伝説も嘘ではないんだろう、と納得してしまう信憑性があった。

そんなふたご島の中を横断しきって、向かいの海へと出る頃には既に日が暮れ始めていた。

サツキがへとへとになって座り込むと、やはりカラが水をくれる。

「ありがとう、カラ」

「カラー、俺にはー?」

ぐったりしているカルミンにカラが渡したのは二リットルのペットボトルのみ。自分でやれと言うことか、カラはけっとでも言いそうな呆れ顔でカルミンの前に仁王立ちしている。

「お前俺には冷たいんだよなぁ……」

「……でも、コップ一杯くらいじゃない、残り」

「……直飲みしろって?」

「多分……?」

コップはミーちゃんやメーちゃんに洗ってもらっているとしても、そんなに二匹に頼るわけにもいかず。だったら直飲みしろと。カラの男らしい豪快な気遣いである。カルミンが相手だからやるんだろうとも思うけれど。

この二人は本当に仲がいい。サツキとミーちゃんだって負けないけれど、カルミンとカラは本当に男同士の友情だと思うことがままあって、女のサツキには踏み入れられないものがある。

「そういえば、言い忘れてたね。お誕生日おめでとう、カルミン。プレゼントはあげられないけど」

「ありがと。……だったら、プレゼント代わりに少しお願い聞いてくれないか」

「なあに?」

「カラをもらってほしい」

ざざ……と波の音だけが聞こえる、日暮れのビーチ。

その物寂しい静寂が、サツキたちを包む。

カルミンも、カラも、静かな顔で決意を決めたようにサツキを見ている。

ああ、昨日の切なさはこのせいだったのだろうか。彼はずっとこのつもりで、今日サツキに会えてよかったと言ったのだろうか。

「な……なんで?」

「カラは、院のポケモンだ。俺が帰ったらこいつもあそこにまた捕らわれないといけない。他のポケモンと違って、こいつだけはおやが俺じゃないからだ」

「それって……」

「こいつを逃がしてやりたいんだ」

サツキの手を掴み、カルミンは懇願する。

カルミンの院への憎悪は、サツキも一端を聞いた。だからこそ、その願いの理由は理解できる。でもカラは。

カラはどう思っているのだろうか。

「元々俺たちはそのつもりだった。俺は大人になれば出れるけど、こいつはそうじゃない。俺が逃がさないと逃げられないんだ。俺はバトルのパートナーが欲しかった。だから、そういう契約で組んだ」

「契約だなんて、そんな。だって二人、そんなに仲いいのに……!」

「ああ、そうだ。親友だ。だからサツキに頼んでる!」

上から覆い被さるように、カルミンが肩を掴んでくる。その表情は悲痛とも言うべき必死さで、彼の、彼らの、いる位置の苦しさを物語っていた。

いつもは、ただ明るい男の子のカルミン。

そんな彼の苦しみに触れるのは、これで二回目。

サツキはただただ泣きたくなってくるのだ。その苦しみにどうしてあげられるわけでもなくて。

「本当は逃がそうと思ってた。リーグが終わって、帰る直前で。だけど、誰かに渡すのもいいんじゃないかって。カラが望むなら、信用のできる相手なら、託してもいいんじゃないかって。――サツキに会って、考えた。そしたら一生の別れではなくなるから。俺だって、カラと別れたいわけじゃない。だけど俺といたら、こいつの未来はないんだ!」

「だったら、せめて、リーグまで一緒にいてもいいじゃない……!」

「こいつの特性は“ひらいしん”だ。サツキの力になれる。カラもそれで了承した。サツキにこいつを託したい」

カラがそっとサツキの隣に来る。鳴くでもなく、ただ無言でサツキを見るばかりで。

カラはどう思っているのだろうか。本当にこれでいいんだろうか。わからなくて、切なくて、涙さえ出てくる。

「カルミン、あたしは……」

「泣かないでよ。こんなこと言えるのはサツキだけなんだ。なぁ、カラ……お前もなんとか言えよ」

サツキの涙を拭うその指に触れることさえできないまま。カラはというと、やはり返事をしない。

「でも……カルミンは、どうなるの?」

「俺?」

「カラと別れたその穴は……誰が埋められるの?」

幼なじみは、偉大なものだ。

サツキにはよくわかる。ユリカの代わりも、ミーちゃんの代わりもいないのだ。唯一無二の親友……それを失った時の穴なんて誰にも埋められない。

だからカラも返事をしないんだろう。そんなドライな関係じゃないはずだ、二人は。

サツキにはよくわかる。だからこそ、イエスと言えないのだ。

このままカルミンは、カラという相棒がいないまま一人で戦っていくつもりなんだろうか。

それを思うと、承諾なんてできなかった。

「カルミンを一人にするなら、あたしは……」

「……っ」

そんなとき。

前触れもなくボールから姿を表す、雪のように白いジュゴン。彼はサツキの涙と跡を舐めたかと思うと、次にカルミンの腹に頭を突っ込む。

そして、ぎゃうと一声鳴いた。振り向き、カラを見て、またもう一度鳴いた。

「……君が、一緒に行くの?」

「……ゴーちゃん……」

一体、なんの気変わりだろう。カルミンのことをあまり良く思っていなさそうだったゴーちゃんが。

カルミンもよくわかっていなさそうな顔をして、腹をさすっている。

サツキもカルミンも置いてけぼりにしたまま、ゴーちゃんはカラと一瞬顔を突きつけあう。そうして、なにかの合意をしたのか、サツキに一度だけ体をすり付けるとカルミンの元に戻っていった。

ぽかんとしていると、サツキの手にカラのホネが握らされる。サツキの顔を見て、カラはやっぱりクールに一つ頷くだけで。

「……もう、君たちだけで勝手に決めないでよ……っ」

「……ごめん」

ぎゅう、と一度カラを抱きしめて、サツキは涙を流す。

カルミンの決意。カラの想い。ゴーちゃんの心変わり。

みんなサツキを余所に決めてしまう。本当に、男の子というのはずるいもので。

「ごめん、サツキ。カラを頼む」

「……馬鹿」

カラを離して、今度は目の前の彼に手を伸ばす。

勝手に巻き込んで、勝手に決めて、勝手にこんなにも苦しい想いをさせるカルミン。

それがあまりにも妬ましかったから、しばらく彼を抱きしめて離してはやらなかった。