マサラタウン

「おーいサツキ! いるんだろ、あそぼーぜ!」

「うん、いくいく!」

「おまえ、ほんとにいつも海入ってんなあ」

「そんなことないよ、雨の日とか寒い日は入ってないもん!」

 緑の茂る田舎町、マサラタウン。その海辺で、一人泳いでいたサツキは軽やかに陸へとあがる。

トレードマークのサイドテールから滴る水気を絞って、体に付いた水を軽く払うと濡れるのも気にせず赤いジャケットを羽織った。

いつも風邪を引くからやめなさいと母カスミに言われるが、どうせ遊び走っているうちに乾くからと気にしない。サツキを呼んだ少年たちと一緒に駆けて、開けた草原に立つと、全員がおもむろにモンスターボールからポケモンを出す。

「おいで、ミーちゃん!」

「出てこいコラッタ!」

 ボールから現れた不思議な生き物――ポケットモンスターと呼ばれる彼らは、呼び出された意味を正しく理解して瞬時に臨戦態勢を取る。

ミーちゃんと呼ばれた、星形の体に赤く光る宝石の埋まっている、ヒトデマン。それと対峙するのは紫の毛並みに白い腹毛の小さなねずみのポケモン、コラッタ。

「今日こそサツキ、おまえに勝つ!」

「へへん、一回でもピンチに会わせてみなよ!」

「それでは、はじめ!」

 合図と同時にポケモンたちが肉薄する。

ぶつかり合い、攻撃しあい、勝敗を決める。これは世界で最も競技人口の多い、ポケモンバトルと呼ばれるもの。ポケモン同士を戦わせるこれは、大人から子供まで、誰もが一度はやったことがある遊びだった。

 顔を合わせたら、一番にバトル。これは遊ぶときの鉄板だった。合図なくてもわかるくらい、遊ぶのに欠かせない。

「今だ、こうそくスピン!」

「ああっ、コラッタ!」

 背後からぎゅいんと空気を切って、コラッタを刺すようにヒトデマンのミーちゃんが激突する。軽いコラッタの体は冗談のように遠くへと飛び、少し離れた草むらに音を立てて落ちた。

「これまで! 勝者サツキ!」

「わーい、勝った勝った! コラッタ、大丈夫?」

「おう、ちょっと目回してたけど。ちくしょー、なんでこう、歯が立たないんだよー」

「これでもジムリーダーの子だもーん」

悔しそうに歯がみする友人に対して小馬鹿にするように胸を張る。

 サツキはマサラタウンの子供の間で一番強い自信があった。バトルを始めた当初から、負けたことがないし追い込まれたこともない。もちろん大人には敵わないし、去年ポケモンリーグ四位まで上りつめた幼なじみのユリカにも勝ったことがない。

 それでも、バトルは得意な方だと思った。だからサツキはバトルが好きだし、なにより楽しい遊びだと思っている。

小さな井の中ではあるけれど、一番になれるのは、やっぱり心地いいからだ。

「いいよなぁ。俺もバトル教えてもらいたいよ」

「んー。でもあたし、バトルのやり方教わったことないよ」

「うそだろ、それであの強さかよ! 本気でやったらどうなるんだよー!」

「えー、チャンピオンになっちゃったりしてー?」

 くすくすくす、と冗談を言って笑う。もちろんそんなものになるつもりはない。

 バトルは、なによりも楽しい遊び。そう、遊び。

 サツキにはそれ以上にするつもりがなかった。いけるとも思っていない。

「なぁなぁ、この前さ、オーカがジョウト地方から帰ってきたらしいんだよ」

「オーカ?」

「しらねーの? オーキド博士の娘だよ。なんでもバトルが強くって、もっと強くなるためにジョウト地方に留学に行ってたんだって」

「へー、すごいねえ。どんな子?」

「さ? 弟が言ってたから聞いただけ。でも昔バトルしたことがあるけど、ほんとに強いって言ってたぜ」

「なにそれー。見たことないならだめじゃんー」

 まるで見てきたことのように話す友人につっこみを入れて、みんなで笑う。

 そこでふっと、視界の端に、麦わら帽子の女の子が目に入る。立ち止まって、こちらを見ている。

 いつの間にいたんだろう?

気が付いて、ぼうっとそちらを見てみるが、すぐに話に視線を戻される。

「でもさでもさっ、サツキとオーカだったらどっちが強いんだろうね! 今度戦ってみてよ!」

「そーんなの、あたしの方が絶対強いよ! なんたってジムリーダーの娘なんだから!」

「どうでしょうか」

 ひやり、冷たい声音が耳に落ちる。

その声に一瞬にして冷やされた空気。ぞっとするほど凍える背筋。怯えるように声の主を見る。

 さっき、こちらを見ていた麦わら帽子の女の子が、サツキの前に立っている。

八歳くらいの、かわいらしい容貌に短い金の髪。深緑のジャンパースカート。大きな麦わら帽子が、女の子の顔に影を作っている。

本当に、かわいらしい女の子だった。

 その凍えるように冷たい大きなつり目を除いて。

「君は……」

「僕があなたに負けることなどないでしょう。バトル、見ましたよ。あの腑抜けたバトルはなんですか?」

「な、なんなのいきなり! やってみないとわかんないし……ふぬけって、失礼だなあ!!」

冷たい感触のする敬語で、女の子はサツキを酷評する。あまりにも突然にぶつけられる敵意と罵倒に言葉が思わず詰まった。

初めてあったというのに、どうしてこんなことを言われなければならないのか。

怒りというよりもショックで頭が白くなっていくのを感じる。腑抜けたバトルと言ったって、ただの遊びなんてあんなものじゃないか。なに言ってるんだろうこの子は。

「あのレッドさんの娘さんが近くにいるからって来てみたら、ただの子供で残念です。レッドさんは、あなたと同い年の時にはあんなに完成してたのに……。やっぱり、すごい人の子供だからって無闇に期待するものじゃなかった」

「君、初めて会った人にそういうこと言うのどうかと思うよ!? パパがあたしになんの関係があるの。ていうか君は、誰!」

「さ、サツキ……」

 臨戦態勢に入ろうとするサツキの服を友達が控えめにひっぱる。

別に止めなくたって、こんな小さい子に殴りかかるわけないのに。

 しかし友達がひっぱった理由は、サツキを止めようとしたことではなかった。

「こいつだよ。……その、トキワ生まれのオーカ」

「――――!」

 えっ。

 そう思ってもう一度女の子の方を向いても、もう彼女はサツキの前にはいなかった。こちらに背を向けてオーキド研究所の方へともう歩きだしている。

 止めようかな、と悩んだ。けれど止めても、なにを言う気にもなれず、起こした体をもう一度草むらに落とす。

「……ほんとに、あの子がオーカなの? まだちっちゃいじゃん」

「金髪で、いつも麦わら帽子被ってる小さいやつだって言ってたから、たぶんあいつで合ってる。今十歳だって聞いた」

「なにそれ、一つしか変わらないの!?」

オーカと呼ばれる女の子は、どんなに大きく見ても八歳ほどにしか見えない背丈だった。顔も幼くて、笑顔を振りまけばきっと誰もがでれでれしちゃうような、そんなかわいらしい顔つきをしていた。

実際には、不似合いであることを感じないほど、冷たい雰囲気を持っている女の子だったが。

 ――――……なんで、あたしのこと知ってたんだろう。パパの名前、呼んでたな。

同い年の時にあんなに完成してた、というのは、レッドが十一歳のときにポケモンリーグを優勝したことを言っているんだろう。たしかに、マサラでは有名な話だけれど。

 なんであんな、敵視されたんだろう?

「……あたし、帰るね」

 なんか白けちゃった。そう言って立ち上がる。

唐突に向けられた敵意に、もう遊ぶ気にはなれなかった。

+++

「はたし状

 サツキ様。

 はじめまして、ぼくはオーカといいます。

 オーキド・オーカです。オーキド博士はぼくの父です。

 とつぜんですが、ぼくはあなたに勝負をもうしこみたいと思います。

 どちらがよりポケモンバトルが強いかを競うのです。

 そのために、ぼくはポケモンリーグの決勝戦であなたと会いたい。

 あなたはマサラで一番強いと聞きました。だからぼくはあなたと戦って、勝つと決めました。

 でも今はぼくもまだ弱いので、旅をしてジムリーダー全てにみとめられたあと、ポケモンリーグに行こうと思います。

 だからあなたにもポケモンリーグに来てほしい。

 完成した状態であなたと戦いたいのです。

 受け入れなくても別にいいですが、どうか考えておいてください。

 ぼくが出発するのはあさってです。

 ぼくはぼくの実力が本物であるときっと証明してみせます。

 あなたも実力に自信があるのなら、証明をしてみてください。

                      オーカ」

+++

「……うーん」

 はたし状、と幼いながらにそれなりに整った字で書かれた文字を見ながら、サツキはうなる。

「うーん…………」

 はたし状って、いったいいつの時代の話よ。時代劇じゃん。

 それを見て一番に思ったのはこれだった。

それは別に、漫画で見るような扇みたいに折られた紙に筆でででーんと書いてあるわけじゃない。

普通の、かわいいクローバーの便せんに、ボールペンで書いてある。だからなおさらいたずらみたいな様子だった。

中身も丁寧な文章で、わざわざ来なくてもいいとまで断っておいて、果たし状なのにポケモンリーグの決勝で会おうなんていう内容だった。

 少年漫画とかでは、大会の決勝でライバルが当たるのは一番のクライマックスだけど。

 ――いやいや、だって会ったの今日が初めてだからライバルとかじゃないし。

 でも彼女は決勝で戦いたいらしい。というより、昼間の様子から言えば「決勝に来れるような実力もないなら相手じゃない」と言った方が多分正しい。

 ごーまんだ、と思う。

サツキはたしかにマサラでは強い。けどこの強いは、あくまで子供たちの間で、という修飾語付きだ。だから彼女が選ぶ相手は違うんじゃなかろうか。

「うーん……」

 友達との遊びを途中で放り出して帰ってきたら、ポストにこれが入っていた。

両親ともジムリーダーで帰りは遅いから、どんなに遊びに夢中になってもこれを受け取るのはサツキで間違いないのだが、それでもこれが親の目に入らなくてよかったと思う。

理由は、どうとは言えないのだが。なんだか恥ずかしい気がするから。

 漢字がわからなかったらしく、ところどころひらがなでいかにも子供っぽい文章とか。

 果たし状とするにはどうにもかわいすぎるクローバーの便せんとか。

 そもそも果たし状というよくわからないものを送りつけてくるところとか。

 お互い知りもしないのにポケモンリーグ決勝戦で会うことになってるところとか。

とにかくとにかく、親に見せるにはなんだか恥ずかしすぎるのだ。今日は早くに帰ってきて正解だった。本当に。

「……どう返事すればいいんだろう」

 サツキは明後日旅立つという小さな彼女に送る手紙の文章を考える。

 あたしは強いけど、子供の間だけの話なので強さを証明したいならパパに挑んだ方がいいと思います。――なんだかバカを晒してるみたいだ。

 ポケモンリーグに勝てる実力があるとは思ってないので辞退します。――それは情けなさすぎる。

 大勢の前で戦うの恥ずかしいのでいやです。――バカじゃないの。

「ううっ、断ろうにも断れないじゃんこれ」

 実力には、自信がある。

 今は遊びのバトルくらいしかしてないからたいした経験値もたまっていないけれど、旅をして本気で磨けば伸びるだろうくらいには自分でも思っている。

ポケモンバトルのサラブレットなのだから、よほど才能を受け継がなかったのでない限りはそれなりの位置には行けると思う。現にマサラの子供の中では負けなしを誇っているのだ。

だから別に、ポケモンリーグの決勝くらい、行けるんじゃない? なんて無謀なことを思わないでもない。

そんな未来を、描いたことがないとは言わない。

 しかしサツキは、自分よりずっと強い幼なじみのユリカが入賞できなかったところを見てしまっている。

 だからそんな気軽な夢は、持てない。

 しかし断るという恥知らずなこともできない。オーカにだって、サツキは負けない。あんなにもコケにされて黙っていられるほど、サツキだってプライドがないわけじゃない。

 しかし。

 しかし。

「あぁぁ~……」

 頭を抱える。

 過去に見た現実。

 未来に描く理想。

 現在に抱える矜持。

その三つがサツキの立場を宙ぶらりんにする。情けないと思っても、その三つのどれもが欠くことなくサツキを構成するものだった。

 バトルは、遊び。あんな圧力のあるバトルコートにサツキはきっと耐えられない。

自分の弱さは、それなりに自覚していた。

怖いものはなんでも嫌い。おばけも、雷も、暗闇も、怒鳴り声も、人の怒りも。

 人の期待と、重圧にも。

情けないけれど、小さい頃からこんなものだ。だから誤魔化せない。誤魔化さない。

どんなにプライドで立っても、きっとあのコートの上で負けたとたん、サツキはなにもかもが壊されてしまう。

 バトルしかないのだ。

 バトルしかないから、あんな大衆の前では負けられないのだ。

 でもバトルしかないから、バトルを挑まれたら断ることもできないのだ。

 板挟みだった。これがポケモンリーグではなく、野良試合なら喜んで受けたのに。

「…………どうしよ」

机に伏せて、うなる。

どれを取る? どれを取ればいい?

中間点はどこにある?

 ――答えはなく、道は一つだけしか見つからなかった。

+++

 彼女はあの手紙を受け取ってくれただろうか。

 オーカは昼間訪れた家の前にもう一度立ち止まる。

夕暮れ時、五時も過ぎてもうすぐ晩ご飯の時間になろうとするのに、見上げる家はどこか人気がない。

二階の一室だけ電気がついていて、リビングのあたりに明かりがついていないのだ。まだ親が帰ってきていないのかもしれない。

 だとしたら、あの果たし状はきっとサツキが読んでくれただろう。オーカは確信する。

昼間、誰もいないのを見てこっそり出した果たし状。それに応えてくれるかどうかは問題ではない。

 あれはいわば、オーカにとっての宣誓だからだ。

 ポケモンリーグに優勝して、自分の実力が本物であることを証明する。

 なんの不正もないことを証明する。

そのためにサツキは別に必要ではない。だが、マサラで一番強いと言われている彼女にポケモンリーグという特別な地で勝てたら、きっと誰よりも確かな証人になってくれる。

 だからサツキを選んだ。

 レッドの娘である、彼女に。

彼女は来てくれるだろうか。来なかったところでオーカが優勝する未来は変わらないのだが。

「…………もったいない人だったな」

昼間見た彼女のバトルを思い出す。

攻撃を寄せ付けないための技の配置。とどめの刺し方のタイミングの完璧さ。

見ているだけで、強いと思った。戦ったらきっといい試合ができると確信できるくらい、洗礼されたやり方だった。

 しかし、そのわりには技が弱すぎた。

 それはポケモンのレベルが低いというわけではない。むしろ年の割に高いと思ったくらい、あのヒトデマンは強い。

だから本当は、最初の一撃であんなコラッタ程度瀕死にできたはずなのだ。

それなのにあんなに手間取ったのは、おそらくサツキが手加減をしているから。

 だから腑抜けたバトルだと言った。彼女は意味に気付いていただろうか。

 たかだか遊びのバトル。とは言っても、あれは爪を隠しすぎている。

 それが見ていて苛立った。まるで馬鹿にしているように見えて。同情とも言っていい。とにかく下手に出ているように見せて馬鹿にする態度にそっくりなバトルなのだ。

相手の少年は鈍いのか、気付くだけの実力がないのか気にしていなさそうだったが。

 もしも彼女が、あのままポケモンリーグに来たのなら、オーカは負ける気がしなかった。

 けれどもし、彼女が成長してポケモンリーグに来たなら。

「…………それでも勝つのは僕だ」

 そうして帰路に戻ろうと思ったとき、ざぁぁっと二階のカーテンが開けられる。

 黒い髪をサイドテールに結った少女、サツキだ。

「今行くから!」

窓を開けるとおもむろに叫んで、すぐにカーテンを閉めてしまう。

まさか見つかるとは思わず、驚きに思考停止している間に今度は玄関の扉が開いた。

 昼間見た水着姿ではなく、タンクトップにショートパンツという部屋着に着替えていた。髪ももう乾いている。

少し無表情にこちらを歩いてくるサツキは、その背の高さゆえにちょっとした威圧感があった。オーカは人よりずっと背が小さいが、サツキも人並みよりも大きいと思った。

 サツキが、オーカの数歩前で止まる。

 なにかを決めたような表情だった。

「果たし状、読んだよ」

「そうですか。では、ポケモンリーグで待っています」

「今、戦うんじゃだめなの?」

「だめです」

きっぱりと即答する。

 今戦うのではだめだ。それは自分にとっても、おそらく相手にとっても。

「今の未熟な僕たちが戦っても意味がないんです。それに僕は、あんなに人を馬鹿にした戦い方をするあなたと戦いたくない。本気のあなたでなくては意味がない。そして僕が勝ったことが多くの人に伝わらなければ意味がない」

「馬鹿にしたって……そんな戦い方、あたししてない」

「気付いていないから嫌なんですよ」

キッと睨みつけてオーカは語る。

「僕と戦うならリーグ決勝戦に来てください。本気の、全力のあなたとだけ僕は戦う。そうでなければあなたは僕に負けるでしょう――――必ず!」

オーカの宣告にサツキは怒るという様相も見せない。

なにかを考えるように、見定めるように、静かな浅葱色でこちらを見つめてくるばかり。

 ここまで年下に言われて、彼女はなにも感じることがないのだろうか。いや、昼間は怒るそぶりを見せていたから、そんなことはないと思うのだが。

 なにも感じさせない彼女に、寒気に似た薄気味悪さを感じる。

「わかった」

 沈黙のあと、サツキが静かに口を開く。

 昼間の子供っぽい様子とはうってかわって、凪いだ海のように静かに。

「ポケモンリーグで待っていて」

+++

 サツキはひとつ、条件をつけた。

 オーカにバトルを挑み、負けたら旅に出て、ポケモンリーグでリベンジを図る。

 バトルに勝ったら、ポケモンリーグに出ないで、今まで通り遊んで暮らす。

無条件にポケモンリーグに出よう、と思うだけの度胸を振り絞れなかったサツキの、臆病さが伺える退路。

どちらもバッジを持っていない今戦って、負けたならリベンジという目的でポケモンリーグをめざせる。とにかく自分のために、自分のためだけにリーグに挑むということには踏み切れなかったのだ。

 そしてそれに、オーカは戦わないことを選択した。

 だからサツキは、言われたとおりオーカと戦うために旅に出ることにした。

「サツキ、ちょっと話が」

「パパ、話があるの!」

 バン!

両手を机について、父レッドの前に立つ。話を遮られたレッドは、無理に作っていた厳格な態度がいっきに崩れて、目を剥いてサツキを見ている。

 黙って旅には出られない。

「あたし、旅に出たいの。ポケモンリーグに挑むために」

「!」

 こんなことを自分が言うのは、珍しいと思う。

台所からガシャンと音がした。食器を洗っていた母カスミがなにかを落としたのだ。鈍い音だったから、食器ではなく調理器具だろうか。

レッドも目を丸くして、サツキの言葉に耳を傾けている。

「なんでまた……」

「オーカって子に挑まれたから、戦うために。……ね、いいでしょパパ。旅に出るの、そんなに珍しくないんだし」

「まあ落ち着け、反対なんかしないし、ちょうどその話をしようと思ってたところだから」

座れ、とジェスチャーするのに従う。

 レッドはまた厳格な態度を取ろうとして、すぐにやめる。難しい表情を作ってもあまり似合わないと思ったから、サツキも吹き出さずに話せそうだった。

「サツキ、バトルは好きか」

「もちろん! なんで?」

「もっと強くなりたいと思うことはあるか」

「……それは……。……楽しくできれば、それでいっかなって、思ってる」

今更すぎる問いに首をかしげながら答える。

バトルは好き。でも遊び以上にやろうと思わないのは、旅に出る決意をした今でも変わらない。

 リーグに行くのは、オーカに戦わないまま馬鹿にされているのが嫌だからだ。そして挑まれたのを断りたくないからだ。

オーカと戦えるなら、正直決勝戦でなくてもいい。できるだけ長くあの場にいたくないわけだし、それこそ一回戦で当たったらばんばんざいだ。その後、勝ち進んでしまったら行くところまで行けばいい。

 それでも、リーグが終わればまたのんびり泳いだりしたいと思っていた。

 そんなサツキの返事に、レッドが眉根を寄せる。

「もし旅に出て、バッジを全部取ってもそう思うなら、そのときはオーカとの約束があってもリーグに出るのはやめろ」

「!」

 そしてきっぱりと、命じる。

 なんでそんなことを言うんだろう。

「なんでそんなこと言うんだろうって思ってるだろ」

「……」

「サツキ、リーグっていうのは遊びじゃない。本気で頂点取りたい奴らが集まってるんだ。だから遊びでやりたいと思っているうちは、たとえ俺に勝っても行かせない。行かせられない」

「……」

「旅に出るなら、本気ってものを覚えてこい。サツキ、優しさと臆病ってものは紙一重でも違うんだ。ずっと遊びでやりたいと思ってるなら、お前は絶対に強くなれない」

 容赦のない宣告。

 どうしてそんなことを言われるのかわからない。サツキだって、本気でやろうと思えばできる。全力を今まで出したことがないだけで。

だけど。

 ――馬鹿にした戦い方をする。

 ――本気ってものを覚えろ。

こう言ったことを言われるなら、自分でも気付かないなにかがあるんだろう。

腑に落ちないまま、無理矢理納得する。父親が許してくれないと言ったら、オーカは納得してくれるだろうか。

 それはそれで癪に触った。

「……わかった」

「ああ、あと、旅に出る前に一度オーキド研究所に行くこと。それがリーグに挑む条件だ」

「えー、オーキド博士怖いからやだ」

「やだじゃない」

 脈絡なく出てきたオーキド博士の名前にサツキはおもいっきり嫌な顔をする。

オーキド博士は数回だけ見たことがある。怖い目つきと怖い顔で、ポケモンバトルを教えてもらおうと来た子供たちを怒鳴り追い払っているところを。

マスコミ嫌いで有名だから、名前以上に知っていることはないがとにかく怖いということだけは覚えている。

 そういえばオーカはあの人の子供なのか。ならあの冷たい雰囲気も納得いった。

「あいつは俺の幼なじみだから。俺の名前を出しておとなしくしてれば大丈夫だって……多分。話は通してあるから、行くだけ行ってもらうもんもらってから行くんだ」

「もらうもの……?」

「おもしろいものだからさ、もらって損はないぜ」

 にっこり、レッドが笑う。

 それだけでなんだかろくでもなさそうだと思う。

苦い顔になったサツキを見て笑いながら、食器を洗い終わったカスミがリビングに来た。

「大丈夫よサツキ、くだらないいたずらとかじゃないから。グリーン……あ、オーキド博士は気むずかしいけど真面目な人だもの。どこかのパパと違ってねー」

「なんだよ、俺だって真面目なとこくらいあるぞ!」

「少なくとも、役に立たないなんてことはないからもらっていきなさい」

「ママが言うなら……」

 引っかかりながらも、母が言うなら少なくとも危険なものではなさそう、と安心する。

しかしオーキド博士に会わなくてはならない。憂鬱すぎる。

「で、旅に出るっていうけど、荷物はまとめ終わってるの?」

「明日やるつもり。明日必要なもの買ったりして、明後日に出るの」

「じゃ、オーキド博士のとこにも明日行きなさいね」

「うぇー……」

うげー、と舌を出すとレッドに引っ張られた。慌てて引っ込めて、笑うレッドを睨みつける。

「次舌出したらなめてやるぞ~」

「ぜーったい、やだ!」

 このセクハラ親父から離れられるなら、旅っていいものかもしれない。

むくれながらサツキは思う。

+++

 オーキド研究所。

 そう書かれた古い看板のわりに、その建物はきれいだった。新しいと言うほどではないが、歴史を感じる看板に対してまだ幼い印象があった。

 その建物の前にサツキは立つ。

 入る勇気は、まだ出ない。

「……どうしても、行かなきゃだめかな……」

はぁ、と大きくため息をついて、幼く威厳のある研究所の前に佇む。

 オーキド博士の恐ろしさは、数え切れないほど知っている。子供たちの間ではもっぱら鬼扱いの人。

それがレッドの知り合いというだけで驚きだが、幼なじみという言葉があまりに不似合いだと思った。噂で聞くオーキド博士と、レッドの雰囲気は正反対なのだ。

 怖い人は、嫌い。

 インターホンを押す、その単純な動作でさえサツキはためらう。押してしまえば楽だろうに、いつもサツキはこうだ。

「……よしっ」

そっと、インターホンに指を伸ばす。

インターホンに指を置いて、あとは押すだけ。

なんだか固く感じるそれを、必死に押そうとして――――バン!

「!?」

唐突に開いた扉を間一髪のところで避ける。

その中から出てきたのは極端に背の高い男と、極端に背の低い子供だった。片方は白衣を着て、片方は麦わら帽子を被っている。

「お、おお、オーカ!?」

「ゼニガメを見ませんでしたか!」

挨拶もせず、小さな女の子がサツキに問う。その向こう側には白衣の男が慌てたように走っていく。

なんだか、妙だ。

「な、なにがあったの?」

「ゼニガメが消えました。今日の検診のあと隙を見て……あいつ!」

なにやらただならぬ雰囲気にサツキまで焦ってくる。

 ゼニガメ、というポケモンを探しているらしい。だがサツキはそのポケモンがどんな容姿なのかもわからない。

それでもつい、そのセリフが口をついた。

「あたしも探そうか?」

「おねがいします!」

ぱっ、と勢いよく腕を引かれて、サツキは前のめりに走り出す。

だが身長差があまりにもありすぎて、あっという間に追い抜こうとしてしまう。逸る気持ちを押さえて、できるだけオーカの速度に合わせた。

今に見失いそうになる白衣の男の後ろ姿を見失わないように、二人は手を離さないで走った。

+++

 オーカに連れられて、走り回ってトキワシティの入り口まで来てしまった。

ゼニガメと呼ばれるポケモンは見当たらず、ついでに白衣の男ともはぐれた。

依然手は繋がれたまま、二人は辺りを見回す。

「いないね、ゼニガメ……」

「まったく、どこに行ったんだ」

オーカはやや憤慨した様子で、ずんずんとサツキを引っ張っていく。

探しているポケモンの容姿がわからないサツキはただ着いていくことしかできない。

「……ねえ、ゼニガメってどんなポケモンなの?」

「知らないんですか?」

 呆れたと言うようにオーカがここではじめて足を止める。

曰く、水色の体に甲羅をしょった、小さな亀だと言う。

「逃げ出したゼニガメはとても好奇心旺盛で……二か月前に生まれたばかりの子供なんです。珍しくボールから出されたままだったから、テンション上がってどっか行っちゃったみたいで。小さいから、そう遠くは行ってないはずなんですけど」

それでも捜索が遅れた分、どこにいるのかわからない。どこまで遠くに行ったのかわからない。だから不安で、焦る。

 オーカの焦燥を感じながらサツキはもう一度あたりを見回す。

 亀だと言うなら、水タイプなのではないか。ならここには川があるから、そのあたりにいるのでは。

考えていることはオーカも同じ様で、彼女も川の中に目を光らせている。しかしどこにも見当たらない。

 ――キー! キー!

 どこかでマンキーの騒ぐ声がする。

このあたりの森には狂暴なマンキーが住み着いていて、こうして騒いでいることも少なくない。近寄るものは容赦なく、リンチをするのが彼ら流だ。

そういうところに行ってないといいけど。

なんて、ぼんやり思いながら首を回す。その先に、一本の木を囲むマンキーたちが見える。

なにか果実があるんだろうか。思って木の上を見るがなにもない。

 なにも――――……。

「あ、あれ……っ!」

「ゼニガメ!」

 木の上にいたのは果実ではなかった。

水色の体に、茶色の甲羅。短い手足で必死に木にしがみついて落とされないようにしている。まだ幼い、ゼニガメ。

その瞳には涙が溜まっている。かわいそうに、絡まれて降りれなくなったのだ。

「だ、誰か……おとーさーん!」

「助けなきゃ!」

 大人を呼んでいたら間に合わない。

オーカの手を離して橋の向こうへと駆けだす。

川向う、水辺に生えた一本の木。その周囲にはマンキーが五、六匹が群がって木を揺らし続けている。おそらく、ゼニガメがテリトリーを荒らしてしまったのだろう。

助けようと近寄るも、マンキーに威嚇されて近寄れない。ミーちゃん一匹で片づけるには、少し数も多い。

 ――どうする。

「……よし、ミーちゃん。あの子みずでっぽうで川に落としちゃって!」

「さ、サツキさん!」

ばばばーっ! と勢いよく水が放たれ、一分の狂いなくみずでっぽうがゼニガメを襲う。見立て通り水タイプならゼニガメ自身にダメージは少ない。そう踏んで、サツキは容赦を許さない。

必死に木にしがみついていたゼニガメだが、だんだん枝がしなり耐えきれなくなっていく。

 折れる、瞬間。

 勢いよく吹き飛ばされていくゼニガメの体を追いかける。

 ダンッ、と強く岸部を蹴って、

「間に合って――――!!」

大きく腕を伸ばす。

その小さな体を抱きしめた瞬間、水柱が大きく上がる。

「――サツキ!」

水に強く打った体の痛みも気にせずに、サツキは川から顔を出す。落ちる時、男の人の声がした。気のせいだろうか。

 うろたえるマンキーたちに目を合わす。大きな音で混乱したのか、その動きはまとまりがない。

 今だ。

「みずでっぽう――――!!」

 抱き上げたゼニガメの体を、マンキーたちへとつき出せばその口から勢いのいい水のレーザービームが飛び出した。その反対からはミーちゃんが同じように技を繰り出している。

挟まれたマンキーたちは逃げ切れないまま、まともに挟み撃ちにされて、技が途切れた時にはもう誰も起きてはいなかった。

「大丈夫だった?」

 状況が呑みこめず、ぽかんとしているゼニガメに問いかける。サツキを認識したあとすぐにはじける笑顔を見せてくれた。

どこにも怪我はないらしい、サツキは胸を撫で下ろす。

「サツキさん!」

「あ、オーカ。ゼニガメ、無事だったよ!」

マサラ側の岸に駆け寄ってきたオーカに、ゼニガメを見せる。怖い思いをしたはずなのに、ゼニガメは無邪気に両手を振る。喉元すぎれば、である。

 ゼニガメに心配したんだぞ、と怒るオーカの後ろ、背の高い白衣の男が立っているのに気付く。鋭い目でこちらを見下ろすその視線に、思わずサツキは震えあがってしまう。

 ――オーキド博士。

「ゼニガメが水タイプだと、知っていたのか?」

低い声が鼓膜に響く。ゼニガメを抱く力を強くしながら、サツキは平静を装って答えた。

「いいえ。でも、この子はカメだと思ったから。カメなら水タイプだと思いました」

声が震えていないだろうか。不安になりながらオーキド博士を見上げる。

 鋭い目が、一瞬、柔らかく緩む。

 ――笑った?

「ゼニガメがもう懐いている。さすがはレッドの娘といったところか。――サツキ」

 低く、優しく名前を呼ばれる。

 川に落ちる時に聞いた声だ。この人だったのだ。

 想像よりは、怖い人ではないのだろうか。

「ゼニガメを捕まえてくれたこと、感謝する。一度研究所へ戻ろう」

「サツキさん、そろそろ出ないと風邪引いちゃいますよ」

オーカが伸ばしてくれた手を握る。優しい子だ。

 引き上げられながら、サツキはゼニガメと顔を合わせて、笑う。

「大丈夫、あたしも水タイプだから!」

+++

「あー……ごめんなさい、お風呂まで」

「ちゃんと髪乾かしてください」

「めんどくさいよお~……」

 ぶおおお、とオーキド博士の助手がサツキの髪を乾かしてくれる。

一体どうしてこうなったのか、研究所に着いたとたんサツキは風呂場に突っ込まれてしまった。着ていた水着も服も風呂に入っている間に乾燥機にかけられたらしく、サツキは体全体がほかほかしていた。

全身がずぶ濡れなのは慣れているから、別にいいと言ったのに。生真面目な三人に怒られてあっという間に今の状態にされてしまった。

 カチッ、と助手がドライヤーのスイッチを切る。終わったのを見て、サツキはざっくりと髪をサイドテールに結いあげる。それと一緒に、オーカが博士に報告に行ったのが見えた。

「サツキさん、こっちへ」

 扉から顔だけを出して、オーカが手招きする。

助手へありがとうございますと言ってから、小さな女の子が入っていった扉をくぐる。

その先には背の高い白衣の男――オーキド博士が一人、佇んでいた。

 改めてよく見れば、随分と顔の整った男性だった。背は高く、眼鏡が知性を引き立てる。目つきは鋭いが、それだけではないことをサツキはさきほど知った。

ちらと見ただけの以前よりは、恐怖を感じない。今まで威圧感しかサツキは知らなったのだと思い知らされる。

 父とは正反対の雰囲気を持っているのに、この人は父の友人なのか。想像するだけで、なんだか可笑しく思えてくる。

「体調は大丈夫か、サツキ」

「大丈夫、です」

 オーカと二人、博士の前に立つ。

心臓がどきどきする。それが恐怖からなのか、その美貌に当てられてなのか、すっかりわからなくなってしまった。

 気にせず博士は話を進める。

「今日、レッドからはなにか聞いているか」

「なにも……。ただ、ここに来るようにって。もらいものをしてから旅に出ろって」

「そうか」

 サツキが聞いた範囲を聞くと、博士は二人に一つのテーブルの前に立つように促した。

言われたとおり、オーカと並んで二人、三つだけボールの置かれたテーブルの前に立つ。それぞれ、フシギダネ、ヒトカゲ、ゼニガメと書いてあった。

「明日、お前たちが旅立つことを聞いた。そこでお前たちに餞別をやろうと思う。この三匹のポケモンのうちどれか一匹と、そしてポケモン図鑑を」

「ポケモン、図鑑……? あ、あの。なんで、あたしに?」

淡々と用件だけを告げようとするオーキド博士にサツキはおずおずと質問する。ぎろりとサツキを見たオーキドに緊張が走るが、彼は怒りはしなかった。

 サツキとオーカに見えるように、低い位置に白い箱型の機械をオーキドは持つ。

「ポケモン図鑑とは、出会ったポケモンを記録していくものだ。出会うことによって白紙の図鑑は埋まっていく。ポケモンバトルの攻略に役立つだろう。加えて、手持ちのポケモンたちのコンディションを測ったり、ポケモンとトレーナーの距離を測ってそれによる能力値の変化も記録することができるものだ」

「ポケモンとトレーナーの距離と、能力値の変化? なんでそれが、ポケモン図鑑で……」

つらつらと言われる説明で、それがデジタル版の図鑑で、かつ、冒険の記録のようなものであることは理解できた。

しかしその後に続いた機能が、図鑑に必要あるのだろうか、と思わずひっかかる。

 オーカは事前に全て聞いているのか、ただ静かにオーキドとサツキを見比べていた。

「俺は、ポケモントレーナーとの関係がどれだけポケモンの強さに影響を与えるか、という研究をしている。しかし、一人のトレーナーとポケモンの関係を初めからずっと見ていることは、実質不可能だ。実験とするには数も要る」

「だから、それを測る機械と、ポケモンをくれるんですね。あたしとオーカを比べて」

「父親と違って察しのいい子供だな」

「実験台になれって、ことですか」

「悪く言えばな」

 三匹のポケモンを、サツキは見る。

無表情にこちらを伺うフシギダネ。さっきからこちらが気になって仕方ない様子のゼニガメ。興味さえ示さず寝ているヒトカゲ。

 研究対象として用意された三匹。きっと真相は知らないのだろう。実験という言葉に、自分で言っておいて妙な反発心を覚える。

「だが、これは純粋にこの三匹を連れていってほしいという気持ちからだ。図鑑はたしかに俺の研究用だから、そういった機能がついているが」

「どうして、あたしたちに……」

「親と同じことをやってほしいってのも、親心だろ?」

 しんとした研究室に、突き抜ける男の声。

ぎょっとして振り返る。

サツキとよく似た髪質の黒髪と、炎のように赤い目。筋肉で太い体をタンクトップ一枚で覆う、その男。

「パパ!? なんで、なんでここに!」

「行けって言ったのパパだぞー。居ても不思議じゃない」

「仕事は!」

「ちょっと抜けてきただけだって……」

詰め寄るサツキに気圧されて、レッドは情けなく眉を下げる。

「……親と同じことって、どういうことですか。僕は実験に協力してほしいとしか聞いていませんが」

「あれ、グリーン。オーカにはなにも言ってなかったのか」

「パパ、あたしは今図鑑とポケモンの存在知ったんだけど?」

「旅に出たいって言うまで言わないことにしてたんだよ……。だってお前やりたいって言いそうにないんだもんさぁ」

 この父親たちは情報伝達が下手だ。ついオーカと目が合う。

向こうも話の見えなさに眉を寄せている。

「昔、パパとグリーンも、オーキド博士からポケモンと図鑑をもらって旅に出たんだ。ああ、“この”オーキド博士のおじいちゃんのことな――ちょうどお前たちぐらいのときだった。図鑑とポケモンをもらって見てきた世界は、今でも忘れられない」

「だから、もしも二人が旅に出ようとしたら。同じように図鑑とポケモンを渡そうと話していたというわけだ」

「ロマンの押しつけうざいよパパ」

「お前はそういうこと言うー! いーじゃん息子とキャッチボールするくらいの夢なんだから叶えてくれよー!」

「おーもーいー!!」

まとわりついてくる父レッドを振り払って、もう一度三つのモンスターボールに向き直る。

 実験台とかでないのなら、純然な夢なら、別に叶えてあげてもいいかな。

 別に、パパと同じ道を通るっていうのになんかロマンとか感じてないし。違うし。

「もー、パパと博士がどーしてもって言うなら、実験手伝ってあげてもいーよ!」

「僕は初めからそのつもりでしたから。……でもお父さんがそういうのなんか意外」

「突っ込まなくていい」

 一通り騒いで、また父と娘が二組、向き直る。

父親二人の間にあるモンスターボールが、今か今かとこちらを覗く。ぱちん、と目があった。

「――さぁ、この中から一匹、好きに選べ」

+++

 あの日と同じように、特別なテーブルに乗っていた三つのボールは、今やたった一つが残された。

子供たちが出ていったあとの研究所は、また元のように静かに、無機質を保つ。

レッドは残されたヒトカゲのボールを撫でて、感慨深くため息をついた。

「サツキがゼニガメで、オーカがフシギダネ。まぁ、らしい選択だったな」

「ああ」

 自分たちの勝手な願いだったが、娘たちには概ね受け入れられただろうか。

もしも娘が一人で歩きだそうとしたとき。そのときは、自分と同じようにここでポケモンをもらって行ってほしい。そんな通過儀礼が欲しい。娘たちが生まれたとき、グリーンと二人で話したことだった。

 それは、自分と同じスタートを切るという漫画のようなロマンであると同時に、子煩悩な自分に対して、子離れをするためのスタートの合図だった。

これから先、サツキは自分の足で歩いていく。レッドのように、なにか大きなことに巻き込まれるかもしれないし、無事に帰ってくるかもしれない。そんな旅に、親はけして介入できない。

 それを理解するために、目の前で自分と同じことをしてもらった。

 旅に出るという、決定的な瞬間を見たかった。

「これで、ミュウもいたら完璧だったかな」

「そう簡単にミュウが現れるわけないだろう」

「そうかなぁ。……そうだなぁ」

 初めて旅に出た日を思い出す。

 ミュウに会って、グリーンに馬鹿にされ、オーキド博士に図鑑とポケモンをもらって。

 強くなるための、旅に出た。

 サツキとオーカの旅は、なんのための旅だろうか。

ポケモンリーグに出るとサツキは言ったが、それはまだ本気でない。まだ娘は、あまりに未成熟で。

「……バトルに答え、見つけてきてくれるかな」

「あの二人。上手く刺激し合うといいんだがな」

「オーカもなんか心配なのか?」

「当たり前だ」

かつてレッドとグリーンがライバルになったように。サツキとオーカもライバルになれたらいい。そう、レッドは思うがまたロマンの押しつけだと言われるかもしれない。

 だが願ってしまう。旅で大きく変わって帰ってくることを。

「二人の試合、見るのが楽しみだな……」

「…………いいですね、男の人って」

「!?」

 どんより曇った声が、低く響き渡る。

かすかな声だったが、静かな研究室ではよく聞こえた。声の方向を見ると、恨みがましそうな目でイエローが壁から半身を覗かせていた。

「い、イエロー……」

「いいですよね、男の人はそうやって娘にロマン託して笑っていられるんですから。オーカは昨日帰ってきたばっかりなんですよ。それなのにお父さんったらオーカをリーグにたきつけて、明日には旅立たせるだなんて。僕にはなにも言わせてくれないんですか。もう、留学ってだけでも不安で不安でしかたなかったのに、やっと一緒に暮らせると思ってケーキ焼いたり、オーカの好きなものいっぱい用意して、昨日はパーティしたのに。それなのに今夜は送別会だなんて。かわいい服いっぱい買って待ってたのに、旅で汚れるから着れないって断られて。あの子はたしかにお父さん似だけど、せめてもうちょっと家にいてくれたらいいのに、お父さんさえ行ってこいだなんて言わなければもうちょっと遅れたのに、それなのに、それなのにお父さんったら僕の気も知らないで…………!!」

 ぞっとする恨み言が一気に放出される。

涙目で、肩を震わして、イエローは少女のようにグリーンを睨みつける。自分に向いていないとは言え、レッドはその呪詛に当てられてしまいそうだった。

 もちろん、一身に受けているグリーンはただでさえ少なそうな血の気がなくなって紙のようになっている。

「……恨まれてんなお前」

「……俺はオーカが言い出したことを許可しただけだ」

 母親っていうのは、たとえポケモンリーグに行くにしても子供を長く手放したくないのかもしれない。

 ちょっとだけ、カスミの怒りをレッドは想像する。この件で反対されたことがないにしても、寂しそうならもう少し妻をいたわった方がいいかと、珍しく考えた。

+++

 今にも夏を迎えそうな空は快晴。

 こんな日は海に泳ぎに行きたいけれど、今日からサツキはマサラタウンから出なければならない。

最低限の荷物だけが入ったリュックを背負って、サツキは玄関を開ける。帽子が欲しくなるほど明るい太陽に一瞬目を細めて、それから意気揚々と背筋を伸ばした。

「忘れものない? お金だけは持っときなさいね」

「大丈夫だよー。ちゃんと持った」

「一日の終わりにはちゃんと連絡してくれよ。どこまで行ったとか聞きたいからな」

「はいはい。パパが寂しくて死なないように電話するよー」

「なめきってんなこの娘はぁ」

 見送りの両親に軽口を叩いて、背を向ける。

 これからしばらくは会えない。それでも寂しくはなかった。旅への不安はあったけれど。

「それじゃ――いってきます!」