プロローグ

 ワァァァァ!!

 誰もが視線を集める先に、まだ十一歳の女の子と、三十歳をすぎた頃の男性が見つめあう。

女の子――幼なじみのユリカを見つめて、サツキはごくりと唾を飲んだ。

男性のポケモンは強そうなサイドン。それにひるむことなく、ユリカは背筋をぴんと伸ばして、まっすぐ相手の顔を見て、指示をする。

「モジャンボ、つるのムチで相手を捕まえて、ギガドレイン!」

「捕まるな、サイドン! あなをほる!」

「甘いですわ! そこには――モジャンボの張ったやどりぎのタネが植わってますのよ!」

相手を休ませることのない攻撃の嵐の果てに、サイドンがとうとうユリカの植えていた地雷を踏む。みるみるうちにやどりぎは生長して、サイドンの角の隙間にまで絡みついてしまう。

 タネが仕込まれる瞬間を、一体どれだけの人が気付けただろう。どよめく会場の中、サツキは植わっていたやどりぎに驚くことなく、ただただ、ユリカの何一つ悟らせない動と静の攻撃の使い分けに感動していた。

 見ているだけで、体がこんなにも熱くなる。

 リーグの熱に、圧倒される。

 それにも負けず凛と立つユリカの姿が、ただただ憧れとして目に焼き付いていく。

サツキだったらきっと耐えられない。この重圧に。

観客の一人として見ているだけで、時々息が苦しくなる。技がはずれたときの落胆の声とか、勝敗がついたときの歓声とか。

 だから一つ年上の幼なじみ、ユリカの背中がかっこよかった。

「さあ、これでフィニッシュ! ソーラービーム!」

 サイドンがやどりぎに捕らわれている隙に集められていた光の圧が、一気に放出される。思わず誰もが目を閉じて、息を呑む。

あれだけうるさかった会場が、一瞬だけ静かになる。

「勝者は――――……」

 静まり返った会場の中で、実況の声だけが響いた。

その声を合図に、目を開ける。

ステージに立っているのは。

「ユリカだ――――!! 準決勝に進むのはタマムシシティのユリカに決まった――――!! さすがは希代のお嬢様、無傷の準決勝進出だ――――!!」

 ワァァァァァァ!!!!

「やった……!」

 その喜びに、サツキは小さなため息しか出ない。

耳が裂けそうな歓声の中で、ユリカが平然とにこやかに、サツキに向かって手を振った。

+++

「すごい、すごいよユリカ! 準決勝進出おめでとう!」

「あらサツキ、喜ぶのはまだ早くてよ。だって私は優勝するのだもの、あれくらい当然ですわ」

「でもでもだって、無傷で一匹で、相手の三体倒しちゃうんだもん! ユリカすごい、やっぱりすごい!」

「サツキ、興奮しすぎ。あんまりプレッシャーかけないの」

 控え室でポケモンを回復させているユリカに詰め寄って、騒ぐサツキを母のカスミがいさめる。しかたなく口を閉じるも、かっと熱くなったままの感情は押さえるのがむずかしくて、苦しさが残った。

 プレッシャーが、とカスミが言うものの、ユリカは平然と持ち込みのお茶を飲んでいる。きっとこの中で一番冷静なのはユリカじゃないかとサツキは思う。

ユリカの両親――タケシとエリカでさえ、次の準備はとか、体調が悪くないかとか、肩でも揉もうかとか、興奮と緊張と焦りが入り交じった様子でずっとユリカの世話をしているのに、ユリカはなにもいつもと変わらない様子で、「平気ですわ」と返している。

 ユリカはいろんな大会に出ているから、慣れているというのもあるのかもしれない。

弓道を始め、剣道や柔道や合気道なんかの大会で優勝を総なめし続けているこの幼なじみは、本当に肝が据わっている。

どんなときも平常心。いっそ余裕さえ見せて、細い目をにこにこさせている。

 そんな様子を見ていると、なんだか代わりに騒ぎたくなるのだ。焦って、緊張して、ユリカのために願掛けしてしまう。

「ああ、でもいよいよ準決勝ですのね。緊張しますわ」

「うそだー。そんなに平然とした顔してるのに」

「そんなことないですわ、心臓がさっきからうるさくてよ。だってこれは、弓道の大会でも剣道の大会でもない。世界の大舞台、ポケモンリーグなんですもの!」

 にっと笑うユリカはわくわくが抑えきれないような、心から楽しそうな顔をする。

それを見て、サツキはたしかにユリカの様子がいつもと違うことを理解した。

他の大会ならユリカはこんな顔をしない。他の大会はしんと静かでぴんと緊張の糸が張っていて、わくわくとか、そんな感じではないから。だから平然として、優勝を取って、当然というような顔をする。

 ユリカがポケモンリーグに立つのは、これが初めて。

 だからなおさら、楽しんで緊張しているのかもしれない。

 理解して、サツキはそっかと返す。

「ユリカなら優勝できるよ。だってあんなに強いんだもん! ユリカの背中、誰よりもぴーんてしててかっこいいんだもん! 応援してるからね」

「ありがとうサツキ。きっと今に優勝トロフィーは私のものですわ!」

 おーほっほっほ、と高飛車に笑う声がうわずっている。

気が付いて、抱きしめる。

「大丈夫だよ」

「……ありがとう」

 ぎゅ、っといつもより強く長く抱き合って、無言のまま。自分のパワーを分けるように、サツキの力を吸い取るように、力強く抱きしめた。

 きっときっと、大丈夫。

 ユリカは勝てるよ。

ちゃんと伝わったと、思うまで離さないでいた。もう一つの準々決勝が終わったらしい、その歓声を聞くまで。

「……もうすぐだね」

「そうみたいね」

 ぷるるるる! と控え室の電話が、鳴り響いたのをエリカが取る。コートの脇に控えるようにとの合図だ。

いよいよ、優勝が目の前に迫っている。そんな空気が、部屋の中に張りつめる。

 休ませていたポケモンたちのボールを、ユリカは腰に付け直す。瞬間、すっとその背筋が伸びて、表情が変わる。

こんな瞬間のユリカを見るたび、サツキは思う。

 かっこいい。

「いってらっしゃい、ユリカ」

「いってきます、サツキ」

 こん、と拳を軽くぶつけて、部屋の扉を開ける背中を見る。

いつだって歪まない、ユリカの背中。今日は特にまっすぐだった。

+++

 ユリカの腰が、ストン、と落ちる。

 まっすぐだった背中が、歪む、

 呆然と手を付いて、倒れているウツボットを、見つめている。

 ――嘘。

「勝利したのは、トキワシティの…………――――!! さすが…………――――――――!!」

 実況が頭に入ってこない。

痛いくらいに目を見開いて、存在感が希薄になったユリカの背中を見つめる。

 ユリカが、負けた。

 準決勝、敗退。三位決定戦を最後に、ユリカのポケモンリーグは、終わる。

血の気が下がる、音がする。信じられなかった。初めはたしかにユリカが圧倒していたのだ。今まで、誰もユリカに傷一つ付けられなかったのだ。そんなユリカが、今負けた。

「ユリカ……っ!!」

「こら、サツキ、どこいくの!?」

「行かせてやれ」

 気が付いたら客席の階段をかけあがっていて、真っ白な頭で、道一つ間違えずにコートの方に走っていた。

手足がバネのように跳ね動いて、なにもかも吹き飛ばすように走る。頭の中はただユリカの小さな背中が浮かぶばかりで、感情とか、感動とか、そういったものがなにもない。

途中立っていた警備員も巻いて、サツキはふらふらと降りてきたユリカにぶつかるように抱きついた。

「ユリカ……ユリカ……!!」

「サツキ……」

 いつもよく通っていた声が、なんの空気も震わせない。

 いつもぴんと伸びていた背筋が、今に抜けそうなほど力がない。

 戻ってきたユリカは、悲しいほどに、存在感が曖昧になっていた。コートに中身を置いてきてしまったように。抱きしめながら、サツキは思わず怖くなる。なんだかユリカがこのまま消えてしまいそうで。

 そろりと、ユリカの手が背中に触れる。

触れた瞬間、肩口が濡れたような感覚があった。

「ユリカ……」

「負け……ちゃ……た」

震える声でしゃくりあげながら、なんとか聞き取れるほどの大きさでユリカがつぶやく。なんて声をかけていいのかわからずに、サツキは彼女の頭ばかりを撫でた。

 苦しくて苦しくて、サツキまで涙が出てくる。

 負けて悔しいのではない。サツキにその涙を流す権利はない。

 ただ、泣いているユリカを見るのが忍びなかった。

前に大会で優勝を取れなかったとき、ユリカは次があると笑って見せた。そのくらい、勝っても負けてもあっさりとしているのがユリカだったはずなのだ。

 そのユリカが、こうして存在感を溶かして涙を流している。その状況を作った、ポケモンリーグで負けるということの重さを見て苦しかった。

「おつかれさま、ユリカ……。かっこよかったよ。かっこよかった」

「うぅ……ううう……」

「来年、またあるよ」

「ううぅ――――……」

「ユリカは、強いもん。次はきっと、優勝できるよ」

 ぁぁぁああ――――!! と声にならないうめき声を上げて、ユリカが泣く。

いつも、泣いているサツキを慰めていてくれていたユリカが泣いている。

 気の聞いたことも言えなくて、苦しくて、今に消えてしまいそうなユリカをかき抱きながらサツキも泣いた。

 ユリカのための、涙でなかった。

 それに気付いてしまっていることに、また泣いた。

+++

「来年のポケモンリーグ、九月だって」

「ふぅん」

 二人で大きな声をあげながら泣いた、ポケモンリーグから三日が経って今日。

 ユリカはいつも通りのあっけらかんとした様子で、自分の立てた茶をすすっていた。三日前の号泣が嘘のように、また凛とした力強い存在感を放っている。

それを見てサツキは安堵して、なにも気にしていないかのような笑顔を作った。無邪気な子供の表情を作った。

「大体、今年と同じ時期みたいだよ。ユリカ、また出るんだよね?」

「出ませんわ」

「えっ?」

両親がジムリーダーであるのをいいことに、早々に得た情報を話しながら、きっと来年も観客席にいるんだろうと思っていた。

またユリカの勇ましい姿を見られるのだろうと、思っていた。

しかしユリカは心から興味がなさそうに、サツキの提示したプリントも見ずに答える。

「今年、入賞もできなかったんですもの。来年出たってまた同じ結果ですわ」

「そんな……わかんないじゃん。勝負なんて、なにが起こるかわからないよ」

「わかりますわ。私はあのとき、決定的で覆らない方法で負けたのよ。だから、来年出たって、再来年出たって、結果は同じ。……しばらく出ないわ。実力が圧倒的に足りないって、思い知らされたから」

「ユリカ……」

 その決断に、思わず、ポケモンバトルやめないよね、と呟きそうになる。

それくらい、ユリカにしては信じられない決意だった。いつもなら、他の大会なら、勝つまでやめないとか、次の大会までにスキルアップをして見返すんだとか、絶対に諦めるという言葉を出さないのだ。

押して押して押しまくる。相手に反撃の余地も残さないほど、勝っているはずの相手でも恐れるほど、彼女の勝利への渇望と粘りはすごいものなのだ。

 そんなユリカに、出ないという選択肢をさせる、ポケモンリーグの重圧。

 勝者との、圧倒的実力差。

 ――ぞっとした。

「サツキは、出ませんの? ポケモンリーグ」

「えっ、あたし?」

 急に話しを振られて跳ね上がる。なぜ自分に水を向けたのだろう。

そんなもの考えたことがない。考えようとしたこともない。

そして今、考えることを永久的に放棄しようとしたところだ。

「あたしは、出ないよ。ていうか出れないよー! ユリカでさえ入賞できないのに、ユリカに勝てないあたしがポケモンリーグで戦えるわけないじゃん。せいぜい一回戦か二回戦敗退がいいとこだよー。あたしはポケモンバトルで遊んでるくらいで十分」

「……そうなの?」

「そうだよ。なんでそんなこと言うのさー」

 遊びで十分。ポケモンリーグで泣いたユリカを見て、決断したことだ。

サツキにはあの場所に立てない。なぜなら。

 臆病者のサツキには、ああいう緊迫感と重圧に耐えられないからだ。

 衆人環視の前で敗北する羞恥心と挫折に耐えられないからだ。

わかっているから、サツキは出ない。

そしてそんな自分が、殺したいほどいやになる。

「……ほんと、もったいない子ね」

 サツキの心理を見透かすように、ユリカが言った。