Day3
「……ごめんなさい、一日目から」
「ええわ別に、期待もしとらん」
アルバイト一日目が終わって、翌日からしばらく熱で寝込んでいた。働いた日は元気だったからまだ大丈夫だと思っていたから、メルはこれでも申し訳なく思っていたのだ。
しおらしく謝るメルに、マサミは素気なく答えて家の中へ招き入れる。怒るでもなく、心配するでもないマサミの態度にメルはどう振る舞ったらいいのかわからなくなる。仕事をがんばるしかないか、と思ったところで、以前はなかったリビングの機械が目に留まった。
「……これは?」
「空気清浄機」
「買ってくれたの?」
「は? 自惚れんな。効率化のためや」
まさか、と思って聞くとマサミは不機嫌に怒る。仕事の度に熱を出されたんじゃ話にならないから、それだけだと。理屈はわかるが、けっして安物ではないそれを簡単に買ってくれるのか。まだアルバイトを初めて一日しか経っていないメルのために。
――オーカの言う優しいって、こういうこと?
初日もメルをギャラドスから庇ってくれたり、マサミの行動は雇用者責任と言うには少し過剰な気がする。オーカの言う優しいとは、こういう誠実さのことだろうか。
言葉は刺々しいのに、行動が優しすぎる。偽悪者なのか、それとも不器用なのかわからないが、マサミのちぐはぐさには好感を抱くばかりだった。メルのことをけして好きではないくせに。
荷物を置きながら、以前取り寄せた戸籍を渡す。
「ありがとう。これ、前に言われたやつ」
「うるせぇお前のためやない。仕事しろ」
書類を引ったくってぷいと背を向けて去ってしまうマサミを見送ってから、メルはコートを脱いで仕事の支度をする。
掃除は前回非常に時間がかかったから、やるなら先に食器類からだろうか。そう思って台所に行ったところで、隅に置いてある踏み台に気付いてまたくすりと笑った。
+++
部屋で一人、マサミはひたすらに打鍵を繰り返す。打ち続けること数時間。最後のエンターキーを押して、ようやく仕事が一区切りついた。
「……ふぅ」
ため息と共に、背中を椅子に預ける。ひとまず、注文のプログラムは形になったはずだ。あとはシステムの動作確認をして、納品。これで今急ぎの仕事は一通り終わりだ。
すっかり冷め切ったコーヒーを口に含んで休憩する。監視カメラの中では依然としてメルががんばって働いていた。しばしば休んでいるのが見えるが、それでもやる気をなくすことなくやっている。ポケモンに助けを請うわけでもなく、小さな体でちまちまと。
その様子を見て、思い出したようにメルから受け取った戸籍を取り出した。特別おかしなところはない、ただの戸籍。弟捜しのためにメルに取ってくるように言いつけた物だ。こうして働かせている以上、マサミも応えなければなるまい。
戸籍に載っているのは父と、母と、子供が二人。問題の弟アントワープは養子に出されているようだ。相手はモッコク。これが祖父に間違いないだろう。
この祖父の戸籍なり住民票が割り出せれば、終わり。
で、あればいいのだが。
「……モッコク、ねぇ」
企業の社長をしているという、メルの祖父。しかし名前で検索してもそんな人間は一人も出てこない。重い病気の子供を引き取って育てられるような人間なら、多少大きな会社を持っていてもおかしくないが。
そもそも、このモッコクという名前が本名であるかも怪しい。戸籍で辿れるような相手ならばメルにさっさと教えてやれば良いのだ。養子にまで出して、メルに居場所も教えないで、徹底的に縁を切ろうとしていること自体が、モッコクという人物がただ人間ではないことを明確に示している。戸籍を取ってみないことにはわからないが、マサミは端から公的書類から読み取れるものに期待はしていなかった。
初めにアルバイトの件でブルーと連絡を取ったとき、彼女はこんなことを言っていた。
『本当に居場所を知らないんですか』
『知らないわ。約束なの。関わらないようにって』
意図的に知らないようにしなければいけない、祖父。正直ろくでもない人物であるようにしか思えない。それを知っていて、それでもメルが探し当ててしまったときは、仕方がないとブルーは言うのだ。簡単に尻尾を出さないと考えているからだろうか。
これに深追いをすれば、マサミも巻き添えになる。わかってて依頼を請けたのだから、腹を括らないといけない、と言うのは簡単だ。だがマサミは自衛の力など持っていないのだ。
あまり関わりたくなかった。しかし。
――なんでもいいの、手がかりになればなんでも。
メルが依頼して来たときの、藁にもすがるような表情が頭に浮かぶ。
あんな女、どうでもいいのに。女の力になんてなりたくないのに。悪人になりきれない性格が、一度請けた仕事を全うしようとしてしまう。
メルは、体が弱いのも厭わず今日も来た。仕事に文句を言うでもなく、今も変わらず働いてくれている。
「……せめて、出るのが鬼でも蛇でもないといいが」
調べて、結局わからなかったと返すのも不誠実だ。これは仕事なんだから、とマサミは不安な心持ちのまま、通話ツールを立ち上げる。そして、知り合いの医者に片端からチャットを送りつける。病気を患っていたという、弟を治療した医師は必ずどこかにいる。祖父から辿るのが危険なら弟の方から足が見えてこないか。そう考えて。
そんな時、コンコン、と扉を叩く音がする。雑に返事をすると、メルが恐る恐る扉を開くのを感じた。
「三時になったから、ポケモンの世話に呼びに来たんだけど……」
「ああ。今忙しいから先進めててくれ」
「……いいの?」
「変なことをすれば全部カメラで見とるからな。あとこいつも頼んだ」
「わかった」
遠慮がちに聞いてくるのも放っておいて、キュウコンのボールを渡すと素直に出て行く。このあたりの聞き分けの良さは使い勝手の良い娘だ。
監視カメラの映像を見ると、ニドキングにボールを運ばせているのが見える。
――まぁ、初日の様子を見ればそこまで不安もないやろ。
そう判断して、マサミは映像に気を配りつつ続きを開始した。
+++
なにやら忙しい様子のマサミに代わって、メルは裏庭に出る。自分では運べないボールや道具類をニドキングに運んでもらっている間に、先に自分のポケモンたちを庭に放った。
メルを必ず守ってくれる五体だ。彼らは庭に出ると、大人しくメルの前に並ぶ。
「さぁ、今日も仕事だぞ。マサミのポケモンたちと遊んでやれ。バトルをしてもいいけど、お前たちの相手にはならないだろうからあまり吹っかけるなよ、リザードン」
マサミのポケモンを出す前に、きちんとリザードンに釘を刺す。リーグが終わってからずっと平和なホワイトフォレストに居たせいで、戦闘狂のフラストレーションは溜まりっぱなしだ。それを察してはいても、ここで暴れられてメルが怒られては困る。
釘を刺されたリザードンはわかっているとでも言いたそうにふてくされる。前回は出さなかったが、ボールから見ていても好みのポケモンはいなかったようだった。
「ニドキング、ありがとう。さぁ、出ておいで!」
全てを運び終わったニドキングに礼を言って、順にポケモンを出していく。キュウコン、ピジョット、ミニリュー、ダグトリオ、ギャラドス――等々、前回も顔を合わせた面々が庭へと解き放たれた。
前回暴れたギャラドスは、サイドンを視認すると縮こまったように大人しくなる。よほど教育をされたようだ。メルの知らない間になにをしたのだろう。
「順番にブラシをかけていくぞ。わたしが呼ぶまでみんなで遊んでいると良い。さ、まずはお前からだキュウコン」
一斉に庭へと散らばっていくポケモンたちの声を聞きながら、近くに居たキュウコンに視線を移す。
前に見たときは大人しかったから、一人でやっても大丈夫だろう。そんな考えからだったが、予想に反してキュウコンはメルに唸る。
「……? どうした、ブラシは嫌いか?」
ブラシを片手に、ゆっくりと距離を詰めるも吠えられて立ち止まる。マサミと居るときはこんなことはなかったのに。
なんだろう、嫉妬だろうか。
主人以外になつかないポケモンというのはいるものだ。特にメルなど、マサミに好かれてもいないからポケモンからは警戒対象だろう。
困ったな、と首を捻る。
「なんだ、わたしがマサミの近くにいるのが不満か? わたしはただのアルバイトだぞ、なんにもしないぞ」
このままじゃ仕事が進まないから協力してくれ、と言ってもキュウコンは動かない。試しに手を伸ばしてみると噛まれそうになる。
それを見ていたサイドンがのそのそと歩いてくるので下がらせつつ、他のポケモンからやるかと諦めた。
「残念だ、とても綺麗な毛並みだから触ってみたかったが」
「……おい」
「あ、マサミ。仕事は終わったの?」
背後から低く声をかけられて、振り返る。鋭い目をさらに鋭くさせた彼の後ろに、キュウコンが寄り添うように回り込んだ。
次の瞬間。
「お前、俺を騙したな?」
「!?」
ぐ、と胸ぐらを捕まれて持ち上げられる。混乱をしつつニドキングたちに待ったをかけた。
――なんだ!? わたしがなにをしたって!?
あまりにも唐突な怒りに思考が追いつかない。なにもしていない、間違いなくなにもしていない。騙すって、なにをだ。
マサミがあまりにも本気で怒っているから、メルは知らない間になにかをしていたのではと不安になる。彼は怒っているような失望したような様子でメルのことを釣り上げて、さらに続けた。
「本当のお前は、そっちか。そうやって、お前は話していたのか、俺のいないところで、俺を嘲笑って」
あまり冷静ではない様子の言葉に、なんとか合点がいく。言葉使いの、ことか。メルが人前ではあまり話さないように教育されている、この。
どうしてそんなことで怒っているのか、わからなかった。母には怒られるが、しかし。
そこで、前に人前で本来の話し方をして失望された記憶を思い出す。メルの隅々までのかわいらしさに期待した人間の、失望の目を。
――この男も、わたしにそれを求めるのか?
「騙してなんかいない! わたしは、ただ、だって、こうしないとお母さんに怒られるから!」
「嘘つくな、お前は――!」
「ニドキング!」
ヒートアップする前に、ニドキングがメルを引き剥がす。マサミに危害を与えるつもりはないが、手出しされるのは困る。
ニドキングに下ろされたところで、サイドンがマサミを取り押さえる。側にいたキュウコンが必死にサイドンに攻撃をしているが、サイドンには一切のダメージが入っていなかった。
「……わたしになにかしたら、ポケモンたちがただでは済まさないって、わたしは言ったわ」
「……っ」
「なにに怒っているの? わたしはあなたを騙してなんかいないわ」
地面に押さえつけられたマサミの前に正座する。彼は憎悪を向けた目でメルを見ていた。
少し残念だった。メルを嫌いで、それでも守ってくれようとする彼には好感を持っていたから。賢そうな男だったのに、こんなに理論のわからない怒りをぶつけてくるだなんて。
「それともあなたも、わたしに天使でいろとでも言うの?」
「ふざけるな、天使はオーカしかいない」
失望を込めて聞くと、予想外の言葉が返ってくる。
ぱちり、と瞬きをする。マサミは本気で言っているようだった。どこか狂信的な様子を込めて言われた言葉に驚きながら、話を続ける。
「俺をそうやって、裏であげつらうつもりやな」
「妄想で話さないで」
「さっきはそんな話し方をしていなかったくせに」
「女の子らしくしないと、お母さんがすごく怒るの。仕方ないのよ」
なにが彼を怒らせたのか。やはりわからないが、少なくともメルに夢を見ての行動ではないようだ。オーカには夢を見ているようだが。
怒りか狂乱かで顔色の悪いマサミに、メルは断言する。
「あなたに見せているわたしは、ずっと同じわたしよ」
メルは、それなりにマサミへ期待をしていた。
関われる人間が限られてくるからこそ、こうやってメルを嫌ってくれる人間は貴重だった。アニーのこともある。よくわからない怒りで追い出されるのは困るのだ。
だから、できるだけ真摯な態度を見せる。メルは口調こそ変えていても、話すことはなにも変えていない。そこを誤解されるのは心外だった。
メルの言葉を受けて、マサミはギリ、と歯噛みする。蒼白な顔で、押さえつけられているのを苦しそうに、それでもなお命令した。
「なら、俺の前では本当のお前を見せろ」
「本当の?」
「その作った言葉をやめろ」
母にきつく言いつけられた、女の子の話し方。これで話していると、誰もがメルを天使のような少女と錯覚をする。メルにとっては鬱陶しい枷のようなものだ。
それを、やめろと彼は言う。
「……いいのか?」
「そう言ってる」
「嬉しい」
彼の怒りの理由はわからない。
それでもありのままのメルでいてもいいと言ってくれるのは、嬉しいもので。
思わず笑顔でそう返すと、マサミは飲み込み難そうな顔をしていた。それを無視して、サイドンに彼を解放するように命じる。
「怪我はないか? 驚いたぞ、いきなり怒鳴ってくるのは」
「……それがお前か」
「ああ。これがわたしだ」
天使か妖精のような可愛らしい容姿。かわいいものに囲まれて生きるべきとでも言うように、言葉使いも服装も、女の子らしいもので固められてきた。
だが、本当のメルはもっと男の子のようなものが好きだった。それを知った人は、容姿との似合わなさに理想を壊されたような顔をしてきた。母でさえ。
それを悲しいとは思わない。だけど、このメルも受け入れてくれる人は、嬉しい。
「ほら、早くポケモンたちの世話をしよう。日が暮れてしまうんだぞ」
「…………ああ」
マサミの表情はどこか浮かない顔をしていた。彼の怒りの真意がメルにはついにわからなかったが――ただのアルバイトであるメルに、そこまで迫る必要はまだなかった。
+++
メルの帰宅を見送って、マサミはよろよろと部屋に戻る。仕事部屋ではない、自室。ベッドに沈むように倒れ込んで、マサミは胸を抑えた。
「…………くっそ……」
動悸が止まらない。息が苦しい。
メルの知らない一面を見たときに、マサミを襲ったのは恐怖だった。隠されていたものを見てしまった恐怖。それを怒りで塗りたくって幼い彼女に八つ当たりして、今なお勝手に苦しんでいる。そんな自分を自覚しては、嫌悪と憎悪に苦しんでいた。
メルは、本当になにも隠してないだろう。
わかっていた。たった二回のアルバイトでも、十分に。彼女はなにも隠してない、ただ弟を探すためにマサミを頼りに来ただけの子供だ。彼女の中にマサミへの期待どころか感情はなにもないし、隠していた本当の彼女は母親に言いつけられて押さえつけていただけのものだった。
母親から話も聞いていたことを思い出す。父親の真似をして困ると、愚痴を言っていたのを聞いていたはずだった。それなのに、あんな風に当たって。
本当のお前を見せろと、言ったときに見せた嬉しそうな顔。きっと彼女も彼女なりに、自分に苦しんでいたこともあるのだろう。
そんな幼い少女に八つ当たりしてまでも、まだ傷ついている自分がいる。あまりにも情けなくて、悲しくて、苦しかった。
『あんたマサミに手出したんだって? 犯罪じゃない?』
『えー、でかいからいいでしょ。顔もいいし』
『でもよく捕まえたよねー、競争率高かったじゃん。実際どうなの?』
『年齢相応って感じ。あんなの、金があるとか、有名人の子供じゃなかったら付き合わないって!』
『やっぱりー? 成績もお父さんほどじゃないんでしょ?』
『所詮子供ってことでしょ』
『あはははははは!!』
頭の中で、何度も何度もその言葉がリフレインする。隠れて言われてきた言葉。マサミに隠しされていた黒い一面。それを聞いてしまったときのこと、それを言及したときのこと。メルの様子を見た瞬間に過ったそれに、冷静ではいられなかった。
繰り返し繰り返し、傷ついてきた、そんな言葉たち。いつもそうやって好き勝手にマサミを形容するのは女の方で、勝手に失望して去って行く。被害者面して。
マサミの持つ資産や美貌、それから高名な父親の名前に釣られてやってくる女たちは、マサミ自身のことは見向きもせず、勝手に値踏みをしていつもそうやって好き勝手言うのだ。劣化品と、嘲笑って、まだ幼い少年にすぎないマサミをなじるのだ。
苦しかった。許せなかった。だから、嘘は嫌いだ。隠し事はもっと嫌いだ。そういうことばかりする女がどうしようもなく嫌いで、恐ろしくて。
メル。
お前も同じでいてくれたら、素直に憎めるのに。
「…………」
――――プルルルルルル。
電話が遠くで鳴っている。仕事部屋の方からだ。重い体を引きずって、ポケギアを探しに行く。数歩歩いて扉を開ければ、パソコンの前に放置したポケギアが、飽きることなく鳴り続けていた。
仕事だろうか、ポケギアを鳴らし続ける電話番号に見覚えはない。
「…………はい」
這々の体で通話を開始する。直後、耳を劈く甲高い女の声にどろりとした憎悪があふれ出してくる。
いつもの、何人もの、マサミの顔や資産を目当てにすり寄ってくる、嫌いな女共の声だ。血の気が引いていって、反対にうるさいくらいの心臓の音が聞こえてくる。電話の相手を早く黙らせたくて傷付けたくて仕方がない。
本当は会話もしたくない。それなのに、相手も自分も傷付けないと気が狂いそうになってしまう。メルに八つ当たりした直後で、その欲求はさらに膨れ上がっていた。
『――――マサミくん? 聞いてる?』
「……ああ、行く」
絞り出すように答えると、女は一方的にしゃべり続けたあげくに電話を切る。名前も顔も覚えていない相手だが、腹が立って腹が立って、ぶつけるようにポケギアを床に叩きつけた。
「……くっそ…………」
どうせ、誰もがこんなマサミを嗤うのだ。
利用価値がなければただの劣化品だと嗤って、マサミを取り込もうとしてくるのだ。
そんなマサミを、マサミが一番嗤っていたのだ。