平成三十年一月六日 東洋大学白山キャンパス 六二〇三教室

 王守仁の聖人論

                  志村 敦弘 客員研究員

〔発表要旨〕近世中国(東アジア)では、儒者は堯舜や孔子のような「聖人」という完成された倫理的模範を目指して学問に取り組んだ。明を代表する思想家であり、いわゆる陽明学の祖である王守仁(一四七二~一五二九、王陽明)もその一人であったが、その聖人論はどのようなものだったのだろうか。彼がその思想形成において強く意識した朱熹のそれと比較しながら発表を行った。

朱熹の聖人論の特色は、聖人が完全な「道」の体現者であるということである。この、「道」とは、時間と空間を超えて存在する、万人が守らなければならない「理」=行動倫理をその内容とするものである。すなわち、聖人とは、それが制定した礼楽制度や言葉が、時間と空間を貫く、万人にとっての普遍的規範そのものとなる存在である。したがって、聖人は常人とは別格の存在であり、常人は聖人という普遍的規範に従う存在である。

王守仁の聖人論はそれとは異なる。彼は聖人とは「良知を発揮する」というはたらきのみを備えた存在とみる。そのはたらきさえ十分であればよく、そのはたらきの結果として生まれたもの、例えば崇高な訓戒を含む言葉や、成し遂げた偉業などによって、聖人は聖人として崇敬されるのではないという。

また聖人において、良知を発揮するというはたらきは、一時のものではなく、常になされている。終わりなき良知の発揮というはたらきがあるだけであり、したがって聖人には完成するということが無い。王守仁によれば聖人といえども、善を極め尽くしてはいないという。善それ自体は、聖人以上の存在なのである。聖人はその善を極める過程のうちにある、未完成な存在にすぎない。朱熹の描く聖人が、普遍的規範そのものとされているのとは異なる。王守仁の聖人像は、究極的存在ではなく、過程的・動的存在である。

以上のことは、聖人も過ちを犯すことを示唆する。実際に彼はそのように述べるが、一方では聖人は過ちを犯しても、それを常に克服するという。過ちの克服という過程にこそ、聖人の聖人たるゆえんがある。

このような、究極的規範ではない聖人は、常人に近い存在である。王守仁によれば、常人にとって、聖人は絶対唯一の規範ではない。常人自らの究極の規範は、聖人にではなくて常人その人にあることになる。

そのような聖人像の本質は、「無体」ということになるだろう。先述のごとく、ただ良知を発揮し続けるというはたらきだけが聖人の条件であるが、そもそも良知とそのはたらきにはこれと決まったあり方、つまり「体」が「無」いのである。またそれゆえ完成されることもないので、常に動的・過程的である。その意味で「無体」の思想に基づく聖人論は、王守仁思想の核心である良知説とも関わるものである。

 

平成三十年一月六日 東洋大学白山キャンパス 六二〇三教室 

禅宗清規における「交割」について

                                  金子 奈央 客員研究員

〔発表要旨〕中国で成立した諸清規には、叢林の公用物の紛失に関わる記述が確認できる。悪意のない紛失であるのか、それとも公共物の横領にあたるのかは文面から確認は取れないが、ともあれあるべき公用物の有無について確認する機会が、職位の交代の際に行われる「交割」である。「交割」とは、職位の交代の際などに公用物と自分の私物とを区別することを指す。

中国撰述の禅宗清規には、葬送儀礼の一つとして唱衣法―死亡した僧侶・住持の遺品を競売する儀礼―の記載がある。発表者はここ数年来この唱衣法の研究に取り組んでおり、唱衣法が叢林内で財産の所有権の移動を促し、その結果として僧侶や叢林に利益がもたらされることを考察してきた。

一方、叢林・寺院内における財の移動という観点から清規を眺めると、唱衣法のほかにも、叢林の財産の移動に関わる記述がある。その一つが「交割」―叢林における役職交代の際に行われる公用物と私物との確認―である。この「交割」に関わる清規の記述を確認することにより、寺院内部での物品の所有権や物品・財産の移動が何を生み出しているか、叢林における経済的機能を明らかにできると考えた。

『禅苑清規』・『禅林備用清規』・『勅修百丈清規』を中心に、役職の引継という文脈での「交割」の用例を中心に用例を確認したところ、叢林・寺院において公用物の紛失や、公用物と私用品との混同が起こりがちであったことが伺われた。また、「交割」の際には、本冊・副冊と用意した帳簿による現品確認などが行われることも確認した。

こうした「交割」は、所有権・物品等の帰俗の問題(寺院財産であるべきものが私有品として僧個人へと移動する、またはその逆)であって、「交割」の用例から寺院経済における財・物品の移動が何を生み出すかについて考察するのに十分であると当初は考えていた。

ところが、寺院財産や物品の帰属問題については「互用」という語の記述も存在する。「互用」とは「互用罪」、すなわち三宝物(仏物・法物・僧物)について互いに濫用する過罪を指す。僧物については、僧伽の帯びる「現前僧伽」(現実に存在する僧伽)と「四方僧伽」(時空を越えた普遍的存在として理念上設定される永遠の僧伽)という二重性の間でも「互用罪」が発生するという[1]

この「互用」について『禅林備用清規』・『勅修百丈清規』には、「僧へ斎を供する費用」を「僧堂の修理費」として互用した用例が記載されているのだが、その報いが苛烈である点[2]から、寺院内部での物品の所有権、寺院内部での物品・財産の移動が何を生み出すか、という問題設定については、中国における律とその違反の際の罰則規定の解釈なども視野に入れる必要がある事が分かった。

 

 

平成三十年一月六日 東洋大学白山キャンパス 六二〇三教室

 井上円了の台湾巡講に関する新資料

                  佐藤 厚 客員研究員

〔発表要旨〕井上円了は明治四四年一月から二月にかけて台湾巡講を行った。この台湾巡講については、すでに『南船北馬集』所収「台湾紀行」(井上円了選集未収録)をもとにした野間信幸の研究「井上円了の「台湾紀行」」(『井上円了センター年報』九、二〇〇〇年)がある。報告者は平成二九年三月に台湾の国立台湾図書館で『南船北馬集』の記録を補う新しい資料を捜索した。本報告ではその一部を紹介する。

新資料は、新聞資料(『台湾日日新報』)五五本、雑誌単行本資料(『台湾教育会雑誌』、『台湾時報』、『台湾』、『実業の台湾』、『高砂文雅集』)一〇本である。この中からいくつかの重要な記事を紹介する。

第一に、中野堅照「井上博士の来台につきて」である。円了は全国巡講に際して随行員を伴い、円了の演説の前に随行員が円了や修身教会を紹介している。中野は台湾巡講における随行員であり、これは随行員の演説の内容がわかる貴重な記事である。

第二に、台北で行った「精神修養法」と「心理的妖怪談」の演説内容がわかることである。この二つの演題は、他の巡講地でも最初に行われており、円了の講演を代表する演題である。

第三に、新聞記事から円了を迎えた現地の人々の期待がわかることである。例えば『台湾日日新報』には「井上幽霊博士は這回来台せらる、土人の幽霊、生蕃の幽霊は以て好対手たる可」とあり、妖怪博士、幽霊博士としての円了を期待することがわかる。

第四に、当時、台湾でも話題となっていた千里眼事件についての反応がわかることである。千里眼事件とは御船千鶴子や長尾郁子らが透視をするとして日本国内で話題になった現象である。当時は台湾でも話題になり、台湾にも千里眼が現れたという新聞記事がある。この千里眼に対する円了の解釈が講演「精神修養法」の中で説かれている。要約すると、精神に異常をきたすと通常の精神活動ではできないことが可能となると述べる。ここから円了は千里眼を否定してはいないことがわかる。

第五に、画像資料の発見である。円了が台北で滞在した日の丸館という旅館に、当時有名な西郷孤月という画家が滞在していた。旅館の主人は西郷に幽霊画を委託し、それに円了が讃を書いた。これは『南船北馬集』にもある記事だが、その幽霊画が『高砂文雅集』(大正六年)という当時の台湾の名士たちの書画を集めた書物に掲載されていた。そこには幽霊画に加え、西郷画、円了讃の達磨絵もある。日の丸館は大正時代に火災で焼けているため、現物は残っていないものと思われる。よってこの画像は貴重である。以上の台湾巡講の資料の一部は『井上円了センター年報』二十七号に掲載予定である。

 



[1] 宮林昭彦・加藤栄司訳『現代語訳 南海寄帰内法伝』(法蔵館、二〇〇七年)、三七五頁

[2] [続蔵63:640a:24-640b:15]、[大正蔵481123a17-1133b2



平成三十年一月六日 東洋大学白山キャンパス 五二〇四教室

 「無著」作の『法随念注』に対する文献学的研究

 ―「翻訳チベット語文献」の読み方―

                 堀内 俊郎 客員研究員

〔発表要旨〕堀内俊郎客員研究員(浙江大学ポストドクター)は、「『法随念注』に対する文献学的研究―「翻訳チベット語文献」の読み方―」と題する発表を行った。発表では、無著(アサンガ)作とされ、チベット語訳としてのみ残る『法随念注』という文献に対して、『釈軌論』、Arthaviniścayasūtranibandhanaとの比較のもとで、文献学的研究を行った。発表前半部では、これを無著作とする先行研究の論拠は論拠とならない、あるいは誤っていることを示した。つまり、(1)この『法随念注』に引用された「法随念経」のテクストの形態は本論と無著との関連を積極的に示すものではないこと、および、(2)本論でなされている語句の解釈は『釈軌論』とほぼ同文であるが、むしろ、徳慧の『釈軌論注』に見られるような『釈軌論』に対する注釈的語句を有している点で『釈軌論』や『釈軌論注』よりも後の著作であること、を指摘した。発表後半部では、翻訳研究を提示した。『法随念注』について、北京版(P)とデルゲ版(D)に基づいて校訂テクストを作成した上で読解にあたり、また、本論はチベット語訳として残っているものの、もとはサンスクリットで書かれたインド原典であるという視座を保ちつつ、背後にあるサンスクリット原典を訳すという姿勢で翻訳を行った。

さらに、副題にあるとおり「翻訳チベット語文献」の読み方について三つの注意点を指摘した。第一に、チベット語はサンスクリットに比べて語彙が少ないので、複数のサンスクリットを訳すために一つの(同じ)チベット語が充てられていることが多い。逆に言えば、一つのチベット語訳から複数のサンスクリットが想定されるということであり、サンスクリット原典の推定には細心の注意が必要である。第二に、翻訳チベット語文献においても、〔漢訳文献と同じく、〕翻訳者の特徴が如実に表れている文献が見られるので、機械的に訳すのではなく個々の翻訳の特徴を見極める必要がある。第三に、翻訳チベット語文献をインドテクストとして読む場合は、関連文献を徹底的に調査し、時にはそのサンスクリット写本にまでたどって、あるいはそのサンスクリット写本にも間違いがある場合は修正して(この種の文献を扱う際には、平行するサンスクリット文献を見いだせばそれで能事畢れりではないのである)、インド原典を探求するという姿勢が必要である、ということを指摘した。本発表内容は『国際哲学研究』七号に掲載予定である。

 

平成三十年一月六日 東洋大学白山キャンパス六二〇三教室

 不愚法の二乗に関する解釈の変遷について

                     水谷 香奈 研究員

〔発表要旨〕慈恩大師基(窺基:六三二―六八二年)の『法華玄賛』には、常不軽菩薩が増上慢の比丘らに対して授記したのは、彼らが理仏性を有するからであり、次第に大乗を信じさせ、「不愚法」すなわち法(大乗の教え)に対して愚かではないようにさせるためだとの記述がある。周知のとおり、法相唯識が立てる五姓各別説では、声聞・縁覚・菩薩には定姓と不定姓の二種類があるが、基は常不軽菩薩が授記した声聞の中には定姓の者も含まれると解釈しており、将来的に大乗に転向する可能性がないにもかかわらず、大乗に触れてそれを信解する声聞の存在を認めていたことが先行研究で指摘されている。本発表では不愚法に関する解釈の変遷をたどりつつ、なぜ基は声聞定姓にも不愚法の者ありとしたのか、その背景について考察してみた。

 愚法・不愚法の声聞について、最初に並立して分析したのは浄影寺慧遠(五二三―五九二年)と思われる。『大乗義章』によると菩薩には漸入菩薩と頓悟菩薩の二種類があり、前者はさらに愚法声聞と不愚法声聞に分けられる。愚法声聞は、過去世から小乗のみを学び、阿羅漢果を得て無余涅槃に入り、長劫の後に大乗に廻心する。不愚法声聞は、過去世において大乗を学んだことがあり、小乗に転向し阿羅漢果を得て有余涅槃に入り、すぐに大乗に廻心する。この愚法と不愚法の声聞についての解釈は、浄土思想と法華経の会通に用いられており、慧遠の『観無量寿経義疏』では、愚法の声聞はいずれ極楽浄土に往生し、不愚法の声聞は極楽よりも勝れた別の浄土へ往生して、どちらも往生後に法華経を聞いて大乗に転向するとしている。

 続いて吉蔵(五四九―六二三年)は、『勝鬘宝窟』において、二乗の人々が自らの智慧と涅槃が完全なものであると思っている間は彼らは愚法であり、その後大乗に転向すると不愚法となると述べている。慧遠と異なり、「愚は不愚の前に在り」というのが吉蔵の説の特色である。

慧遠も吉蔵も、不愚法の声聞についてはいわゆる不定姓の声聞として解釈している。これに対して基は、前述の通り、不愚法の声聞を大乗への信解がある声聞定姓と解釈している。「信」という表現は慧遠や吉蔵には見られず、信じていながらなぜ声聞定姓と言えるのかという疑問も生じるが、信じるだけで菩薩としての実践が伴わない(行仏性がない)場合は、菩薩種姓とは言えないということであろう。基がこう述べた背景には、『成唯識論』や無性の『摂大乗論釈』への独自の解釈があると思われる。これらの論書には、凡夫・二乗のためには世尊は阿陀那識の存在をお説きにならなかったという文があるが、基は『成唯識論述記』などにおいて、より正確に言えば不愚法の声聞は第八識を証得できないが信解することは可能であり、説法の対象者に含まれると解釈している。この解釈が『法華玄賛』執筆時に応用されたのではないだろうか。

以上の発表に関連して、質疑応答で二名の方からご質問をいただいた。