平成二十六年十月十八日 東洋大学白山キャンパス スカイホール

 呪的新宗教の成立過程 ―世界救世教を事例として―

隈元 正樹 奨励研究員   

 〔発表要旨〕欧米の宗教社会学において、呪術と宗教は厳密に区別されてきた。例えば、デュルケムによれば、呪術は教会(組織)をもたないという。一方で、日本の新宗教研究においては、宗教(救済)と呪術(現世利益)とがなめらかに繋がっていることが指摘された(対馬路人ほか「新宗教における生命主義的救済観」、『思想』六六五号、岩波書店、九二―一一五頁)。しかし、その組織論的研究は、充分に行われていない。

 本発表では、日本の呪的新宗教(霊術系新宗教)である世界救世教の教団成立過程を事例として、宗教化の要因、意味を分析した。

 世界救世教は、戦後日本を代表する新宗教教団の一つで、教祖は岡田茂吉(一八八二~一九五五)である。大本の宣伝使を務めていた岡田が、一九三五(昭和十)年に立教した。浄霊と称する病気直しの秘儀(手かざし)を中心的な宗教実践とする呪的新宗教であり、現在、包括宗教法人「世界救世教」のもとにある三つの被包括法人(東方之光、世界救世教いづのめ教団、世界救世教主す のひかり之光教団)が、教主を共に推戴しつつ、実質的に教団を運営している。

 岡田茂吉は一九二八(昭和三)年、大本の分院として組織化を開始し、一九三四(昭和九)年五月、東京麹町区平河町に「岡田式神霊指圧療法・応神堂」を開設、翌年一九三五(昭和十)年元旦に大日本観音会を発会するが、一九四〇(昭和十五)年医師法違反で玉川警察署に留置され、組織は統一性を失う。戦後一九四七年八月、宗教法人日本観音教団が発足し、宗教法人の設立に伴い、従来の療術中心の活動に、初期の宗教的な側面が次第に復活し、「治療」から「浄霊」への方向になる。一九四八(昭和二十三)年十月、傘下の五六七会が宗教法人「日本五六七会」(会長・渋井總斎)として独立する。一九五〇(昭和二十五)年二月、日本観音教団、日本五六七会が発展的に解消されて、「世界救メシヤ世教」が設立される。一九五五(昭和三十)年二月、茂吉の死により、妻のよ志が二代教主に就任する。その後教団内での分派化がおこり、一九七二(昭和四十七)年十一月に組織が一元化されるも、教団分裂の方向に向かうが、一九九七(平成九)年、和解合意に基づき、二〇〇〇(平成十二)年、包括法人「世界救世教」のもとに、上記三つの被包括法人が位置づけられる。

 以上の経緯において、宗教法人の設立に伴う宗教化についていえば、世界救世教が宗教化した要因は、当初からの茂吉の志向性のほか、一九四七(昭和二十二)年の医療制度審議会の「いわゆる医療類似行為はすべてこれを禁止する」という答申にみられる「療術の危機」を背景にした偶然の産物でもあった。宗教化したことによって、世界救世教の「教え」には形而上学的側面が復活し、民間療術的行為であった浄霊が宗教的儀礼として再定義された。それと平行して、教団組織の統合度が高まっていった。そこで、「教え」の形而上性(究極性)、組織の統合度が、宗教と呪術を分ける指標として有効であることが確認できる。ただし、呪的新宗教としての世界救世教の統合度は、「教え」を中心とした教団のようには高まることがなかった。