檜垣 直右ひがき なおすけ

産業・経済

岡山県宇野港築港の功労者

【生没年】嘉永4年(1851)昭和4年(1929)

【享年】 79

【誕生地】長門国萩堀内(萩市堀内)

【墓】不明

藩士宇野家に生まれ、山口町の檜垣家の養子となった。幼名は安之進。山口明倫館に学ぶ。明治3年(1870)上京し、明治5年に東京師範学校に入る。卒業後、四国や石川県の師範学校長をつとめた。その後、秋田・福島両県の書記官を経て、明治33年(1900)に富山県知事となった。

明治35年、岡山県知事に就任する。当時、岡山県南部に県の玄関口となる港を築く計画があったが、日露戦争後の財政難などにより行き詰まっていた。檜垣は明治37年、「県政100年の大計」との信念から宇野港(現在の玉野市)の築港のため、工費計上を県会に提案するも否決、翌年に3ヵ年事業として再提案したが否決された。明治39年、最後の手段として内務大臣指示による原案執行を強行、地元を除く県内ほとんどの地域で反対運動が起こるなか、同年、起工式が行われた。檜垣はその直前に休職を命じられたが、その後、朝鮮総督府京畿道長官となり、大正2年(1913)退官した。

なお、宇野港は明治42年(1909)完成、翌年、宇高線と宇高航路が開通する。昭和5年(1930)宇野港は岡山県最初の開港に指定され、玉野市の発展の礎となった。


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