大村益次郎 (村田蔵六)(おおむらますじろう (むらたぞうろく))

政治・軍事

軍事面で討伐に尽力した洋学者

【生没年】文政8(1825年)- 明治2(1869年)

【享年】 45 歳

【誕生地】周防国吉敷郡鋳銭司村(山口市)

【墓】山口市鋳銭司(田中山) 京都市東山区(霊山墓地) 大阪市北区(龍海寺)

医者村田家に生まれ、豊後日田の咸宜園に学ぶ。弘化3年(1846)大坂の適塾に入門し、のちにその塾頭となる。嘉永3年(1850)郷里で医業を開くが、嘉永6年、宇和島藩に招かれて蘭学・兵学を教授。安政3年(1856)江戸に出て私塾鳩居堂を開く一方、幕府に登用されて蕃書調所教授方手伝となり、翌年、講武所教授に就任した。 万延元年(1860)長州藩に召し抱えられ、山口の普門寺に蘭学塾を開き、西洋兵学を教授する。ついで藩の兵制を改革し、慶応元年(1865)軍務掛に就任、藩命により大村益次郎と改名した。翌年の長州戦争(四境戦争)では石州口の総参謀として優れた戦略を発揮し、長州藩を勝利に導いた。 明治元年(1868)太政官からの命により新政府の軍制改革を推進する。戊辰戦争では上野戦争を指揮して彰義隊を破り、奥羽・北越方面の平定にも尽力して、軍務官副知事に任命された。明治2年(1869)兵部大輔となり、兵制の大改革を企てて京都を巡回中、刺客に襲われ負傷し、まもなく死亡した。

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大村益次郎 (村田蔵六)