横山幾太(よこやまいくた)

政治・軍事

福井県教育行政の功労者

【生没年】天保12(1841年)- 明治39(1906年)

【享年】 66 歳

【誕生地】長門国萩松本村上野(萩市椿東)

【墓】長門市深川湯本(大寧寺)

藩校明倫館に学び、17歳の安政4年(1857)冷泉雅二郎(天野御民)の誘いで松下村塾に入る。初対面の吉田松陰から「お勉強成されられい」と迎えられたとの談話が残り、また松陰は横山らの勉強会を「上野の一隊」と呼んだ。 文久2年(1862)江戸へ出て安井息軒の三計塾に学ぶ。慶応元年(1865)小姓役となり、さらに明倫館の都講に任じられる。翌年、長州戦争(四境戦争)では諸兵軍監として芸州口に出撃。慶応3年、御半紙役となる。 明治元年(1868)戊辰戦争で東上する干城隊に御使番として加わり、柏崎(新潟県柏崎市)や京都などへも使者として派遣された。明治3年、萩中学の一等助教となる。明治4年、大津郡在勤を命じられ、翌年、第十九大区長(のちに大津郡長)に任じられた。 明治12年、内務省に出仕。明治14年、福井県に転出して学務・衛生課長となり、福井・小浜の両県立中学校新設に尽力、のちに福井中学校長を兼任する。明治17年に辞職、帰郷後、再び大津郡長となり、明治29年に引退した。 長男の健堂は文学者・評論家として活躍した。

(C)萩博物館

横山幾太