青木周蔵(あおきしゅうぞう)

政治・軍事

条約改正交渉に尽力した外交官

【生没年】弘化元(1844年)- 大正3(1914年)

【享年】 71 歳

【誕生地】長門国厚狭郡小埴生村(山陽小野田市)

【墓】栃木県那須塩原市(旧青木家那須別邸)

医者三浦家に生まれ、のちに藩医青木研蔵の養子となる。慶応3年(1867)藩命により長崎で医学を修め、明治元年(1868)プロシア(ドイツ)へ医学修業に赴く。しかしベルリン到着後、大学では宿願であった政治・経済学を学んだ。明治6年、木戸孝允の推薦により外務一等書記官心得となり、外交官の道へ進み、明治7年、最初の専任駐独公使に着任。明治10年、ドイツ貴族の娘エリザベットと結婚した。 その後、長い駐独公使の経験から、明治のドイツ通の第一人者となり、外務卿井上馨の条約改正交渉に助言を行う。明治19年(1886)外務次官となり、外務大臣井上馨の主宰する条約改正会議に活躍。明治22年、第1次山県有朋内閣の外務大臣となり、条約改正交渉を有利に進めたが、翌年、大津事件が起こり責任をとって辞職した。明治25年駐独公使に再任。 明治27年(1894)駐英公使として日英通商航海条約に調印し、領事裁判権の撤廃に成功する。明治31年、外相に再任して北清事変を遂行。のちに駐米大使に転じて移民問題の解決にあたるも、越権行為とみなされ召還された。

青木周蔵

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