赤禰武人(あかねたけと)

政治・軍事

奇兵隊三代総督

【生没年】天保9(1838年)- 慶応2(1866年)

【享年】 29 歳

【誕生地】周防国玖珂郡柱島(岩国市)

【墓】岩国市柱島(西栄寺) 柳井市阿月 下関市吉田町(東行庵)

瀬戸内に浮かぶ、柱島の医者松崎三宅の長男として生まれ、同島の庄屋中富十兵衛の婿養子となる。海防僧・月性や松下村塾を主宰する吉田松陰に師事。その才を認められ、長州藩重臣浦家の家老赤禰忠右衛門の養子となった。 京都に出て、勤王家の梅田雲浜に師事。過激な攘夷運動に加わり、文久2年(1862)12月には高杉晋作・久坂玄瑞らと品川御殿山に建設中の英国公使館を焼き打ちした。さらに翌3年、下関で晋作が奇兵隊を結成するや馳せ参じ、第3代の総督となり、藩の政務役を兼務した。元治元年(1864)8月、4カ国連合艦隊が下関に襲撃すると、奇兵隊を率いて奮戦。同年、長州征伐のさいは、恭順謝罪を進める藩政府との間に妥協点を求めて交渉を続ける。ところが12月、晋作が挙兵し、内戦を起こしたため複雑な立場に立たされ、九州や上方に赴く。のち故郷の柱島の中に捕らえられ、抗弁の機を与えられぬまま、山口で処刑された。その獄衣には「真は誠に偽りに似、偽りは以て真に似たり」と記されていたという。現在では赤禰に被せられた罪は、冤罪との見方が強い。

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