乃木希典(のぎまれすけ)

政治・軍事

明治天皇に殉死した陸軍大将

【生没年】嘉永2(1849年)- 大正元(1912年)

【享年】 64 歳

【誕生地】江戸麻布長府藩邸(東京都港区)

【墓】東京都港区(青山霊園)

長州の支藩、長府藩(5万石)の藩士乃木希次の子。文蔵と称す。江戸で生まれたが、11歳の時、家族とともに長府に移り住み集童場で学ぶ。亡き吉田松陰に憧れるあまり、16歳の元治元年(1864)、家を出て萩の玉木文之進に師事。玉木家と乃木家は遠い親戚だった。また文之進は松陰の叔父であり、師でもあった。さらに慶応元年(1865)9月からは藩校明倫館への入学が許可され、明治元年(1868)7月に退学するまでを萩で学ぶ。途中、慶応2年には一旦帰郷し、長州戦争(四境戦争)で小倉口に出征し、負傷した。 明治になり陸軍軍人としての道を進み、萩の乱や西南戦争などの不平士族の反乱を鎮圧。さらに日清・日露戦争で戦い、陸軍大将となる。特に日露戦争では第三軍司令として、数万人の死傷者を出しながら、旅順港を陥落させた。学習院長を任ぜられ、のちの昭和天皇の教育にも心を砕く。明治天皇に殉じ、東京赤坂の自宅で静子夫人とともに自決。軍神として祭り上げられ、東京・下関長府・那須・伏見・函館・香川善通寺に乃木神社が建てられた。

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乃木希典