寺島忠三郎(てらしまちゅうざぶろう)

政治・軍事

尊攘運動に奔走した志士

【生没年】天保14(1843年)- 元治元(1864年)

【享年】 22 歳

【誕生地】周防国熊毛郡原村(周南市)

【墓】京都市東山区(霊山墓地) 山口市(朝日山護国神社) 周南市(原)

安政5年(1858)、萩の藩校明倫館に入り、さらに松下村塾で吉田松陰に師事する。兵学をよくし、詩文に長けていたという。安政6年、「安政の大獄」に連座した松陰が江戸に送られたさいは、故郷の熊毛郡呼坂でひそかに見送った。 文久2年(1862)3月、京都に上り、攘夷運動に奔走。「航海遠略策」を唱える長州藩士長井雅楽を、久坂玄瑞ら同志と共に暗殺しようと計画するが、発覚して罪を受けた。同年12月には、江戸で高杉晋作・久坂らと御殿山に建設中の英国公使館を焼き打ちする(異説あり)。同3年3月、京都東山の翠紅館で藩世子毛利元徳(定広)臨席のもとに轟武兵衛(熊本藩士)・久坂らと会合を開き、将軍上洛に先立ち、攘夷期限の決定を迫った。 同年8月18日の政変後も京都に潜伏して失地回復を目指すが、元治元年(1864)7月19日、禁門の変(蛤御門の変)で浪士隊を率いて戦うも敗れ、久坂と共に自決した。

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寺島忠三郎