富永 有隣とみなが ゆうりん

教育・文化

松下村塾をささえた客分教師

【生没年】文政4年(1821)明治33年(1900)

【享年】 80

【誕生地】周防国吉敷郡陶村(山口市)

【墓】山口県田布施町

藩士富永七郎右衛門の長男。名は徳。字は有隣。通称は弥兵衛。号は履斎など。藩校明倫館に学ぶ。小姓役、配膳役などを歴任するが、嘉永5年(1852)親族らにより見島へ流される。翌年野山獄に移り、安政元年(1854)に獄中で松陰と出会った。

安政4年(1857)松陰らの運動により釈放され、松下村塾に教師として迎えられた。以後、塾は全盛期を迎える。なお、改修されて塾舎となる杉家の小舎は、もと「富永部屋」と称されたという。

松陰の再投獄直後に塾を離れるが、のちに奇兵隊に参加。幕長戦争(四境戦争)では鋭武隊を率い石州口・芸州口に戦う。

明治維新後、諸隊の脱隊騒動を首謀し、捕縛され東京の石川島監獄に投じられる。その後、特赦により出獄し、熊毛郡波野村(山口県熊毛郡田布施町)に開塾。国木田独歩の小説「富岡先生」のモデル。


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