前原一誠(まえばらいっせい)

政治・軍事

官を辞した萩の乱の主導者

【生没年】天保5(1834年)- 明治9(1876年)

【享年】 43 歳

【誕生地】長門国萩土原村(萩市)

【墓】萩市土原(弘法寺) 萩市下田万(西法寺)

藩士佐世家に生まれ、父の出役の関係で幼少期を厚狭郡船木(山陽小野田市)で過ごした。24歳の安政4年(1857)萩に帰り、松下村塾に入門。その後、洋学の修得に励むが、文久2年(1862)脱藩上京し、長井雅楽の暗殺を図るなど尊王攘夷運動に参加する。文久3年の8月18日の政変後、都落ちした七卿の用掛となり、元治元年(1864)下関で英・仏・蘭・米の4ヵ国連合艦隊に応戦した。 慶応元年(1865)高杉晋作に協力して藩内戦で諸隊を勝利に導き、用所役右筆となる。その後、干城隊頭取や越荷方などを歴任。長州戦争(四境戦争)では小倉藩の降伏に尽力し、戊辰戦争では越後口総督の参謀として長岡城の攻略に力を注いだ。 明治2年(1869)越後府判事となる。続いて政府の参議、兵部大輔などを歴任するが、新政府の政策と意見が合わなくなり、翌年、病気を理由に辞任し、萩に帰る。 明治9年、不平士族を統率して萩に挙兵(萩の乱)、敗走して宇龍港(島根県出雲市)で捕らえられ、萩で処刑された。

前原一誠

(C)萩博物館