吉田稔麿(よしだとしまろ)

政治・軍事

諸隊結成に尽力した村塾の四天王

【生没年】天保12(1841年)- 元治元(1864年)

【享年】 24 歳

【誕生地】長門国萩松本村(萩市椿東)

【墓】萩市椿東(護国山団子岩) 山口市秋穂二島(朝日山護国神社) 京都市左京区(三縁寺) 京都市東山区(霊山墓地)

萩藩の下級武士吉田清内の長男として松本村新道に生まれる。通称は栄太郎。嘉永6年(1853)、旅籠払方手子として江戸に赴き、アメリカのペリー来航騒ぎを体験。列強の外圧を痛感し、翌年帰国後、槍術を学ぶ。安政2年(1855)9月に再び江戸に赴き、安政の大地震のさいは、萩藩邸の上屋敷で活躍し注目される。翌3年2月に帰国して、11月から自宅近くに住む吉田松陰に師事して影響を受けた。しかし同5年12月、松陰に投獄の命が下るや、他の門下生とともに藩重役宅に押しかけたため謹慎に処される。万延元年(1860)9月、脱藩して江戸に赴き、幕府旗本妻木田宮の使用人となり、幕府との間にパイプを築く。文久2年(1862)7月、藩主世子より帰参を許され、尊王攘夷運動に奔走。同3年7月には士分に準じ、名字を許され、屠勇取建方を命じられた。同年8月18日の政変で、萩藩は京都から追放されたため、失地回復を目指し、幕府側との交渉を進めるも、元治元年(1864)6月5日、池田屋事変のさい京都の加賀藩邸前で闘死した。

吉田稔麿

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