高杉晋作(たかすぎしんさく)

政治・軍事

奇兵隊を創設した村塾の双璧

【生没年】天保10(1839年)- 慶応3(1867年)

【享年】 29 歳

【誕生地】長門国萩菊屋横町(萩市)

【墓】下関市吉田(東行庵) 下関市上新地町(桜山神社) 萩市椿東(護国山団子岩) 京都市東山区(霊山墓地)

諱は春風。藩校明倫館に学び、安政元年(1854)には江戸で黒船騒動を体験。安政4年、吉田松陰が主宰する松下村塾に入り頭角を表し、久坂玄瑞と並び「松門の竜虎」と称された。文久元年(1861)、藩主世子(世継ぎ)の小姓役として初出仕。同2年に藩命により上海渡航し、アヘン戦争後、欧米列強の支配を受ける中国の実情を見て危機感を強め帰国。12月には久坂や井上馨(聞多)らと品川御殿山に建設中のイギリス公使館を焼き打ちした。しかし自らの富国強兵策が藩に受け入れられぬと知るや文久3年3月、京都で剃髪、10年の暇を貰い東行と号し萩で隠棲する。ところが同年5月、藩が関門海峡で攘夷を断行するや起用され、下関防御を任されて6月に奇兵隊を結成。軍事力不足を補うため、庶民を動員した点が画期的だった。勅命を奉じた長州征伐軍に屈した藩政府を打倒すべく元治元年(1864)12月、遊撃隊などを率いて下関で挙兵。大田・絵堂の内戦をへて、藩論は「武備恭順」に統一される。慶応2年(1866)、再び攻め寄せた長州征伐軍撃退の指揮を小倉口で執るも、下関林家離れで病死。

高杉晋作

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