木梨信一 (木梨平之進)(きなししんいち (きなしへいのしん))

産業・経済

士族授産事業に貢献した財政通

【生没年】天保11(1840年)- 明治33(1900年)

【享年】 61 歳

【誕生地】長門国萩土原村渡り口筋(萩市)

【墓】山口市糸米

藩校明倫館に学び、14歳の嘉永6年(1853)家督をつぐ。19歳の安政5年(1858)松下村塾に入り、吉田松陰から「近来の勉強家」と評される。安政6年、西洋学所が博習堂に改編されると、成績優秀により官費生となる。 万延元年(1860)江戸へ出て桜田藩邸内の有備館の館長となる。文久3年(1863)他所人応接懸り、御使番に登用され、近隣諸藩に使者として赴く。慶応元年(1865)干城隊御用掛となり、翌年の長州戦争(四境戦争)では津和野藩へ使者として派遣された。 明治2年(1869)権大参事となり、藩政中枢を担う。明治3年、財政研究のため渡米する伊藤博文に従い、米国財務省で国立銀行制度、租税紙幣、出納、造幣法などを学ぶ。翌年帰国し、山口県や政府に出仕した。 明治11年に依願退官し、士族授産事業の一環として計画された第百十国立銀行(現在の山口銀行)の創設に携わる。明治14年には同銀行取締役、明治23年、3代目頭取となった。明治25年、第2回衆議院議員選挙に当選した。正木退蔵の従兄。

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木梨信一 (木梨平之進)