森 寛斎(もりかんさい)

教育・文化

京都円山派を代表する日本画家

【生没年】文化11(1814年)- 明治27(1894年)

【享年】 81 歳

【誕生地】長門国萩雁島(萩市椿東)

【墓】京都市東山区(霊山墓地)

藩士石田家に生まれる。名は公粛、寛斎と号す。幼時より画を好み、12歳のとき萩の画家大田龍に入門。その後、大坂に出て円山応挙の門下十哲のひとり森徹山に学び、認められて森家の養子となる。25歳のとき京都に出て円山派の復興を図り、42歳の安政2年(1855)御所造営に参加、「帰去来」「赤壁」を描いた。 その後、山県有朋や品川弥二郎ら尊王攘夷派と交わり、幕府や諸藩の動静を探索、新選組の襲撃を受ける。四国の琴平や丸亀などを転々として幕吏から逃れつつ、京都と萩の間を奔走し、慶応元年(1865)萩藩に召し抱えられた。 明治維新後は画業に専念する。明治10年(1877)塩川文麟の没後、京都画壇における円山派の正系として重きをなし、京都の画家団体後素如雲社(のちの京都後素協会)の運営にあたった。明治15年、第1回内国絵画共進会で「葡萄栗鼠図」により銀賞を受賞する。明治23年、第3回日本美術協会展では「後赤壁図」により特別賞を受賞、同年、帝室技芸員となった。また後進の育成にも力を注ぎ、山元春挙・野村文挙らを育てた。

森 寛斎

(C)萩博物館