国司浩助くにし こうすけ

産業・経済

日本のトロール漁業の先駆者

【生没年】明治20年(1887)昭和13年(1938)

【享年】 52

【誕生地】神戸市

【墓】萩市北古萩町(亨徳寺)

旧長州藩(萩藩)の藩士であった乃美平太の三男として生まれ、明治26年(1893)同じく旧藩士国司助十の養子となる。養父助十の実母は、日産コンツェルンを創設した鮎川義介の父弥八の姉。明治37年(1904)山口中学校(現在の山口県立山口高等学校)を卒業後、鮎川に農商務省水産講習所に入ることを勧められて入学した。

明治41年(1908)から1年半、汽船トロール漁業の調査のためイギリスやドイツに留学する。帰国後の明治43年、田村市郎の委託を受けてイギリスでトロール船湊丸を建造し、翌年、湊丸を日本まで回航した。これを機に、田村が創業した田村汽船漁業部(のちの日本水産)の事業責任者としてトロール漁業に取り組んだ。

その後、田村汽船漁業部は共同漁業となり、昭和4年(1929)から翌年にかけて福岡県戸畑(北九州市戸畑区)への根拠地移転を敢行。これにより、国司の掲げた漁業、製氷、冷蔵・冷凍、加工、流通、販売のすべての機能を備える水産物供給拠点として体制を整えた。ディーゼルトロール汽船の建造や急速冷凍装置など新技術の導入にも貢献。合理的な経営手腕を発揮し、のちに日産コンツェルンに参画した。


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