山尾庸三(やまおようぞう)

産業・経済

日本近代工業の推進者

【生没年】天保8(1837年)- 大正6(1917年)

【享年】 81 歳

【誕生地】周防国吉敷郡二島村(山口市)

【墓】東京都品川区(海晏寺)

萩藩陪臣(繁沢家の家臣)の家に生まれる。幕末ころは「庸造」と称した。萩に出て繁沢家に寄寓して学ぶ。さらに周防徳山や江戸でも学び、桂小五郎・斎藤弥九郎らの知遇を得た。文久元年(1861)、幕府の船亀田丸(船将・北岡健三郎)に乗り、ロシア・アムール地方を視察して、帰国後は箱館(函館)で武田斐三郎に師事。同2年12月、高杉晋作・久坂玄瑞らと、品川御殿山に建設中のイギリス公使館を焼き打ちするという過激な攘夷運動にも参加する。同3年、井上馨(聞多)らとイギリス・ロンドンに秘密留学。とくに各種工業を研究し、薩摩藩留学生の援助を受けて、グラスゴーで造船技術を学んだ。明治元年(1868)に帰国後は木戸孝允(桂小五郎)の勧めにより新政府に出仕。日本近代化のため近代工業の確立に尽力し、人材育成のため工学寮(現在の東京大学工学部)の設立を提唱した。明治13年(1890)に工部卿となり、以後は参事院議官、参事院副議長、宮中顧問官、法制局長官などを歴任。同31年(1898)に退官後は文墨を楽しみ、特に金魚を愛した。また、盲唖学校の設立にも尽くす。

(C)萩博物館

山尾庸三