野村 靖(のむらやすし)

政治・軍事

明治政府の内務・逓信大臣

【生没年】天保13(1842年)- 明治42(1909年)

【享年】 68 歳

【誕生地】長門国萩土原村(萩市)

【墓】東京都世田谷区(大夫山) 萩市北古萩町(浄国寺)

下級武士の家に生まれた。通称を和作、靖之助という。禁門の変で戦死した入江九一の弟。安政4年(1857)、16歳で松下村塾に入り、吉田松陰に師事。同5年、松陰が公家大原重徳の西下を計画したさい、密使となって京都に入るが失敗。さらに同6年2月、兄に代わって松陰の伏見要駕策のため奔走したが、これも失敗して3月、萩城下岩倉獄に投ぜられる。万延元年(1860)3月、赦されて過激な攘夷運動に加わり、公武合体を唱える長井雅楽の暗殺計画に名を連ねた。文久3年(1863)、松陰に師事したことが認められ、士籍に列せられる。慶応元年(1865)の藩内戦や同2年の長州戦争(芸州口)などでも戦う。明治4年(1871)には岩倉使節団に加わり、欧米各国を視察した。同6年に帰国したのち、外務権大丞や神奈川県令を務める。さらに第2次伊藤博文内閣では内務大臣、第2次松方正義内閣では逓信大臣を務めた。晩年は富美宮・泰宮両内親王の養育掛長を務め、鎌倉で病没。遺言により、世田谷の松陰墓所の傍らに葬られ、師よりもひと回り小さな墓碑が建てられた。

野村 靖

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