柴田家門(しばたかもん)

政治・軍事

郷土の人材育成につとめた文部大臣

【生没年】文久2(1862年)- 大正8(1919年)

【享年】 58 歳

【誕生地】長門国萩平安古(萩市)

【墓】東京都港区(青山霊園)

幼時に漢書を学び、年少期には田中義一(首相)・藤井幸槌(陸軍中将)とともに秀才と称された。明治15年(1882)上京し、大学予備門(のちの第一高等中学校、現在の東京大学教養学部)に入学する。さらに東京帝国大学法科大学(現在の東京大学法学部)に進学した。 明治23年(1890)卒業後、内閣書記官、法制局参事官、行政裁判所評定官などを歴任。明治31年、第2次山県有朋内閣のもと内務省地方局長に登用される。明治34年、第1次桂太郎内閣の書記官長となり、明治37年に日露戦争が勃発すると桂首相を補佐して功を立てた。明治39年、内閣総辞職とともに官を辞め、貴族院議員に勅撰された。 明治41年(1908)、第2次桂内閣が成立すると書記官長に再任し、ついで韓国併合にさいして拓殖局総裁に転じる。大正元年(1912)第3次桂内閣に文部大臣として初入閣した。大正2年、内閣総辞職とともに再び貴族院議員に勅撰された。その一方、同郷の青少年の育成に努め、防長教育会や防長倶楽部などの維持に尽力した。大正8年、避暑地の浜松で没した。

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