奥平謙輔(おくだいらけんすけ)

政治・軍事

萩の乱・前原一誠の参謀

【生没年】天保12(1841年)- 明治9(1876年)

【享年】 36 歳

【誕生地】長門国萩土原村梨木町(萩市)

【墓】萩市椿(大照院)

藩校明倫館に学び、成績優秀であったため、安政6年(1859)その居寮生となる。文久3年(1863)先鋒隊(選鋒隊)に入り下関へ行き、外国船砲撃に参加。慶応2年(1866)干城隊に入り、翌年、干城隊引立掛りとなった。 明治元年(1868)戊辰戦争では干城隊の幹部として越後や東北に転戦。会津戦争では、面識のあった会津藩重臣秋月悌次郎に書を送り、降伏を促したとの逸話が残る。また、会津城下の真龍寺の住職河井善順から、会津藩士の子弟山川健次郎(のちの東京大学総長)の将来を託されるなど、会津の人々との親交を深めた。 明治元年(1868)、佐州参謀兼民政方として佐渡へ赴任し、厳しい改革政治を行ったため「鬼参謀」の異名をとる。明治2年、越後府権判事となり、引き続き佐渡に滞在したが、まもなく辞職して萩へ帰った。明治9年、前原一誠を補佐し、政府への反感を抱く不平士族を率いて挙兵、萩の乱を起こすも、敗走して出雲宇龍港(島根県出雲市)で捕えられる。前原らとともに萩に送り返され、まもなく処刑された。 詩書に秀で、著作に『弘毅斎遺稿』がある。

奥平謙輔

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