山県有朋(やまがたありとも)

政治・軍事

日本近代軍制の確立者

【生没年】天保9(1838年)- 大正11(1922年)

【享年】 85 歳

【誕生地】長門国萩川島小橋筋(萩市)

【墓】東京都文京区(護国寺) 下関市上新地町(桜山神社)

下級武士の家に生まれる。前名を小助・狂介。素狂・含雪・椿山荘主人・無隣庵主人などと号す。安政5年(1858)、藩命で京都に派遣され尊王攘夷論の影響を受け、帰国後吉田松陰の松下村塾に入門する。文久3年(1863)、士雇に列せられ、奇兵隊に参加して軍監となり頭角を現し、数々の戦いで戦功を立てる。明治元年(1868)の戊辰戦争では新政府軍の北陸道鎮撫総督兼会津征討総督の参謀として各地を転戦した功により賞典禄600石を与えられた。翌2年、渡欧して兵制を学び、翌年帰国。大村益次郎亡き後の兵部省に入り、兵部少輔、兵部大輔、陸軍大輔と進み、徴兵制を施行させるなど近代陸軍の基礎づくりに尽力した。西南戦争などの士族反乱を鎮圧し、軍人勅諭の発布に参画した。明治18年、第1次伊藤博文内閣の内務大臣となり地方自治制を制定。みずからも22年と31年に2度組閣した。23年に陸軍大将となり、日清・日露戦争を推進。政党を嫌い官僚政治を進めた。元帥・元老として政界・軍部に絶大な影響力を持ち、「長州閥」に君臨した。

山県有朋

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