松本 鼎 (釈提山)(まつもとかなえ (しゃくていざん))

政治・軍事

倹約励行の和歌山県知事

【生没年】天保10(1839年)- 明治40(1907年)

【享年】 69 歳

【誕生地】周防国佐波郡田島村(防府市)

【墓】不明

農民の吉武家に生まれ、幼くして出家、萩の東光寺・通心寺に学び、釈提山と名乗る。19歳の安政4年(1857)松下村塾に入り、塾舎に寄宿して炊事をしながら吉田松陰に学んだ。 文久3年(1863)七卿落のころ京都近辺に滞在。元治元年(1864)禁門の変では伏見方面の戦闘に参加し負傷、この前後に還俗して松本鼎と改名した。藩に帰るとただちに山田顕義や品川弥二郎らとともに御楯隊を組織し、書記となる。長州戦争(四境戦争)では芸州口に戦って功をあげ、士雇に登用された。明治元年(1868)整武隊軍監として戊辰戦争に従軍、翌年、箱館(函館)五稜郭の攻略に戦った。 凱旋後は藩の要職につくが、明治2年、脱隊騒動の責任をとり辞職。その後、大阪府・熊本県に出仕、明治15年(1882)和歌山県に転出し、翌年、和歌山県令(のちに県知事)となる。県会で民力の疲弊を指摘し、倹約の方針を実行に移した。明治23年、第1回衆議院選挙に和歌山3区から当選、のちに貴族院議員となった。 晩年は京都に移住し、品川弥二郎が創始した尊攘堂(京都大学に現存)の運営に尽力した。

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松本 鼎 (釈提山)