藤田伝三郎(ふじたでんさぶろう)
産業・経済
藤田組を興した関西財界のリーダー
【生没年】天保12(1841年)- 大正元(1912年)
【享年】 72 歳
【誕生地】長門国萩南片河町(萩市)
【墓】京都市東山区(知恩院)
酒造家藤田半右衛門の四男として生まれる。萩では醤油醸造業を営むかたわら、多くの志士と交わり尊王攘夷運動を支援した。 明治2年(1869)商工業発展に尽力することを決意して大阪に出て、軍の御用達に従事。明治12年、わが国最初の民営の硫酸製造会社を興し、明治14年には藤田組を設立し社長に就任。明治15年、わが国最初の私鉄鉄道阪堺鉄道(現、南海電鉄)を開設、翌16年には大阪紡績会社を設立。鉱山業では秋田県の小坂鉱山をわが国屈指の銅山として再生、岡山県の児島湾干拓など多方面の事業を展開した。 社会文化事業では、明治11年(1878)大阪商法会議所(大阪商工会議所の前身)を創設し、2代頭取に就任。大阪日報(毎日新聞の前身)の再興や、秋田鉱山専門学校(現、秋田大学)・大阪商業講習所(現、大阪市立大学)の設立に寄与。古美術品の収集に力を注ぎ、その収集品は藤田コレクションとして名声が高い。郷里萩にも多額の寄付をなした。日本水産創業者の田村市郎、日立製作所の基礎を築いた久原房之助、大阪毎日新聞社長を務めた本山彦一は甥。
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