渡辺蒿蔵 (天野清三郎)(わたなべこうぞう (あまのせいざぶろう))

産業・経済

日本近代造船界のパイオニア

【生没年】天保14(1843年)- 昭和14(1939年)

【享年】 97 歳

【誕生地】長門国萩川島庄(萩市)

【墓】萩市椿(長蔵寺)

藩士渡辺家に生まれ、天野家の養子となるも、のちに渡辺家に復籍した。15歳の安政4年(1857)有吉熊次郎の誘いで松下村塾に入る。吉田松陰から「奇物」と期待された。 万延元年(1860)松島剛蔵の指揮する洋式軍艦丙辰丸の江戸への遠洋航海に参加。久坂玄瑞らの尊攘運動に加わり、文久3年(1863)奇兵隊に入ったが、元治元年(1864)禁門の変で長州藩が敗退後、西洋兵学の修得に励む。 慶応3年(1867)兵学修業のため飯田俊徳とともに長崎へ派遣され、まもなく藩命により米国留学に出発。さらに英国へ渡ってロンドン大学に学び、グラスゴーで造船技術を修得した。 明治6年(1873)帰国、工部省に入る。長崎製作所で造船事業の近代化につとめ、明治12年、東洋一とうたわれた立神ドックを完成。明治16年、日本最大の木造船小菅丸を完成させ、長崎造船局の初代局長となるも、翌年、造船局が三菱会社へ貸与となったため本省に戻った。49歳の明治24年に退職し、帰郷後は松下村塾の保存事業に地元代表として尽くした。松陰に学んだ松下村塾生で最も長生きした人物。

渡辺蒿蔵 (天野清三郎)

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