楫取素彦 (小田村伊之助)(かとりもとひこ (おだむらいのすけ))

政治・軍事

草創期の群馬県政を担った初代県令

【生没年】文政12(1829年)- 大正元(1912年)

【享年】 84 歳

【誕生地】長門国萩(萩市)

【墓】防府市桑山(大楽寺)

藩医松島家に生まれ、儒者小田村家の養子となる。藩校明倫館に学び、江戸に出て佐藤一斎や安積艮斎に師事、帰国後は明倫館で指導する。吉田松陰の妹寿(寿子)と結婚し、松陰の投獄後は松下村塾でも教育にあたった。 安政6年(1859)藩主毛利敬親の側儒に抜擢され、文久元年(1861)以降、江戸・京都・萩の間を奔走する藩主に随行し、藩政中枢に参与。慶応元年(1865)長州征討にさいし、宍戸たまき(山県半蔵)とともに広島に赴いて幕府側との交渉にあたり、翌年、長州戦争(四境戦争)直前には広島に一時拘留された。慶応3年、藩命により楫取素彦と改名した。 明治維新後は新政府に出仕し、地方官を経て、明治9年(1876)群馬県が新たに発足したことにより、その初代県令(現在の県知事)となる。約10年間の在任中には、県庁を高崎から前橋に移転して伝統産業の養蚕・製糸業を奨励し、また教育にも力を入れるなど、草創期の群馬県政に大きく貢献した。明治14年、妻寿をうしない、明治16年、松陰のもう一人の妹文(文子、久坂玄瑞の未亡人、美和子と改称)と再婚した。その後、元老院議官、宮中顧問官、貴族院議員などを歴任した。 松島剛蔵の弟。小倉健作の兄。

楫取素彦 (小田村伊之助)

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