小幡高政(おばたたかまさ)

産業・経済

夏みかん栽培の父

【生没年】文化14(1817年)- 明治39(1906年)

【享年】 90 歳

【誕生地】周防国吉敷郡恒富村(山口市)

【墓】萩市北古萩町(海潮寺)

藩士祖式家に生まれ、のちに小幡家の養子となる。嘉永3年(1850)家督をつぎ、非常手当表番頭、翌年大組物頭弓役、安政5年(1858)萩町奉行役などを歴任。同年、江戸留守居役に転じ、安政6年、評定所での吉田松陰への死罪判決申渡しに藩代表として陪席した。 文久2年(1862)公武間周旋御内用掛として江戸・京都間を往復する。元治元年(1864)にいったん辞職するが、慶応2年(1866)表番頭として北第五大隊総督用掛をつとめ、長州戦争(四境戦争)では芸州口に出陣した。 慶応3年(1867)、郡奉行となり、明治元年(1868)民政主事となる。その後、藩の諸役を歴任し、明治4年、政府に召され少議官となり、宇都宮・小倉などへ赴任。明治9年、辞職して萩に帰り、まもなく士族の救済のため夏橙の栽培に着手、耐久社を設立して産業化に成功した。また第百十国立銀行(現在の山口銀行)の創立にも加わり、2代目頭取となった。 萩市平安古町の旧田中別邸は、もと小幡高政の邸宅で、邸内には小幡自身が明治23年に夏橙栽培の苦心を記した石碑「橙園之記」が建つ。

小幡高政

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