ラインホルト・ヒレル(らいんほると・ひれる)

萩地域

萩ドイツ寮教師

【生没年】天保12(1841年)- 明治36(1903年)

【享年】 63 歳

【誕生地】ドイツ国ベルリン

【墓】不明

明治5年(1872)萩中学内のドイツ寮にドイツ語教師として招聘され、夫人とともに3年間、萩に在住してドイツ語を教えた。2人は、萩に居住した最初の西洋人であった。 ドイツ語を教えるかたわら休日には植物や昆虫の採集に出かけ、とりわけ多くの甲虫を採集した。これらの標本はベルリン博物館に送られ、日本産甲虫の研究に大いに寄与した。 萩で生まれた娘には「オヨネ」と名づけたり、自身は羽織袴、夫人と子どもは着物で写真を撮ったりして出来るだけ日本になじもうとした。 明治8年(1875)、ドイツに帰国して再びベルリンに居住したが、長岡外史(陸軍中将、民間航空創始者、日本スキー先駆者)、大岡育造(衆議院議長、文部大臣)、玉井喜作(シベリア大陸を横断しドイツ在住、欧文雑誌「東亜」刊行)など、ドイツ滞在の多くの山口県人たちがヒレルの自宅を訪れ親交を深めた。その1人、日本医科大学の前身、日本医学校を創設した山根正次は、ドイツ寮でのヒレルの教え子である。

(C)萩博物館

ラインホルト・ヒレル