椋梨藤太(むくなしとうた)

萩地域

安政改革を担った長州藩役人

【生没年】文化2(1805年)- 慶応元(1865年)

【享年】 61 歳

【誕生地】長門国萩(萩市)

【墓】萩市江向(徳隣寺)

学識深く、密用方に登用され、藩校明倫館用掛として、嘉永2年(1849)その興隆に尽力する。嘉永3年、政務座役(江戸方右筆)となって藩政の中枢に参与。嘉永6年、政務座役を免じられ、彼の添役であった周布政之助に実権を奪われる。さらに、安政2年(1855)周布を退けて再び実権を掌握するなど、何度か政権交代を繰り返した。安政3年に退役するが、安政4年、明倫館頭人役を経て、安政5年、熊毛郡代官に転じ、万延元年(1860)までつとめた。 文久3年(1863)坪井九右衛門の処刑にあたり、同志とともに罰せられる。しかし元治元年(1864)禁門の変後、幕府が朝廷の命により長州征討を開始すると、周布政之助から政権を奪還。奇兵隊ほか諸隊の解散令を発し、益田右衛門介(親施)・福原越後(元僴)・国司信濃(親相)の三家老を切腹させて幕府へ謝罪し、周布派の政務員を次々に処刑した。高杉晋作らの下関挙兵に対し、萩から鎮圧軍を送るも、慶応元年(1865)大田・絵堂(美祢市)での内訌戦に敗退。まもなく同志とともに脱走を図ったが、津和野で捕らえられ、野山獄で処刑された。

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椋梨藤太