田中義一(たなかぎいち)

政治・軍事

金融恐慌鎮静化にあたった首相

【生没年】元治元(1864年)- 昭和4(1929年)

【享年】 66 歳

【誕生地】長門国萩菊屋横町(萩市)

【墓】萩市椿(蓮正寺) 東京都府中市(多磨霊園)

御六尺(藩主の駕籠かき)の田中家に生まれ、3歳のとき平安古に移る。13歳の明治9年(1876)代用教員の資格をとり、新堀小学校の教壇に立つが、同年、萩の乱に加わり捕えられる。釈放後は長崎や松山に学び、陸軍士官学校を経て、明治25年に陸軍大学校を卒業した。 日清戦争に従軍後、軍事情勢の探索のためロシアへ赴く。日露戦争では満州軍参謀として、奉天(現在の瀋陽)ほかの会戦の勝利に貢献。その後、全国の青年団を統一し、在郷軍人会の理事長にも就任。大正7年(1918)原敬内閣の陸軍大臣、大正10年、陸軍大将となった。 大正14年、立憲政友会総裁に推され政界に入る。昭和2年(1927)金融恐慌の渦中に内閣総理大臣となり、支払猶予緊急勅令(モラトリアム)を発行し銀行取りつけ騒ぎを沈静化。昭和3年、第1回普通選挙法を施行する。同年、奉天で張作霖爆殺事件が勃発し、昭和4年、責任を問われて総辞職したあと急死した。ニックネームは「おら(俺)が大将」。首相在任中に国会議事堂や旧首相官邸の建設も手がけた。 長男の龍夫は通産相・文相などを歴任した。

田中義一

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