手塚 猛昌てづか たけまさ

産業経済

日本の時刻表の父

【生没年】嘉永6年(1853)11月22日~昭和7年(1932)3月1日

【享年】 80

【誕生地】長門国阿武郡須佐村(萩市須佐)

【墓】東京都港区(青山霊園)

長州藩(萩藩)永代家老須佐益田家の家臣岡部家の次男として生まれ、須佐の郷校育英館で学んだ。19歳の時、黒川村(萩市黒川)の黒川八幡宮の神官手塚家の養子となり、山口に出て神道中教院に入学する。防府の玉祖神社や山口の黒川八幡宮の神官を経て、山口神道事務局長となった。

33歳の明治18年(1885)慶應義塾に入り、同塾中の最老書生となった。在学中は、同塾幼稚舎で漢文教師のほか、福沢諭吉家の家庭教師もつとめた。明治22年に慶應義塾を卒業し、翌年、庚寅新誌社を創立、政治経済雑誌『庚寅新誌』を刊行した。

明治27年(1894)恩師福沢諭吉の勧めにより、荘田平五郎の援助を受けてイギリスの時刻表を手本として、日本で初めての本格的な月刊時刻表『汽車汽船旅行案内』を発刊した。これが現在の時刻表の基礎となり、手塚は日本の時刻表の父と称されることになった。

また、渋沢栄一らと帝国劇場の設立に参画したほか、東京市街鉄道(東京都電車の前身)や横須賀電灯瓦斯、広島炭加製造など諸会社の設立にもかかわった。


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手塚猛昌