入江九一(いりえくいち)

政治・軍事

奇兵隊結成に尽力した村塾の四天王

【生没年】天保8(1837年)- 元治元(1864年)

【享年】 28 歳

【誕生地】長門国萩土原村(萩市)

【墓】萩市北古萩町(長寿寺) 山口市秋穂二島(朝日山護国神社) 下関市上新地町(桜山神社) 京都市東山区(霊山墓地) 京都市北区(上善寺)

萩藩士。称は杉蔵など。下級武士の家に生まれる。のち、明治政府の政治家となる野村靖(和作)は実弟。江戸藩邸の下働きをして家計を助けながら学問に励み、松下村塾にも学び、吉田松陰に深く傾倒した。伏見要駕策では松陰の指示を受け、尊攘運動に奔走するも、安政6年(1859)、捕らえられ、萩の岩倉獄に投ぜられた。その後釈放され、藩論が攘夷に定まるや、文久3年(1863)1月、士雇に昇格する。同年2月、京都に上ったが、3月、攘夷派公卿中山忠光の脱走に従い帰国した。下関に陣を構え、久坂玄瑞らと関門海峡を通航する外国船を砲撃して気炎を上げ、同年6月には同地で高杉晋作を補佐して、奇兵隊を結成する。しかし同年8月18日の政変により、萩藩が京都での地位を失うと、失地回復のため奔走。元治元年(1864)7月、禁門の変では参謀として戦ったが、重傷を負い自決した。後世、高杉・久坂・吉田稔麿とともに「松門四天王」のひとりに数えられる。

入江九一

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