青木研蔵(あおきけんぞう)

教育・文化

種痘で伝染病予防に努めた西洋医

【生没年】文化12(1815年)- 明治3(1870年)

【享年】 56 歳

【誕生地】周防国大島郡和田村(周防大島町)

【墓】栃木県那須塩原市(旧青木家那須別邸)

医者青木家に生まれる。日田に出て広瀬淡窓の咸宜園に学び、兄の周弼とともに長崎へ遊学する。さらに江戸へ出て、蘭学者伊藤玄朴に学んだ。なお、のちに兄の養子となり、文久3年(1863)兄の没後、青木家の家督をついだ。 弘化4年(1847)医学所の西洋書翻訳御用掛に登用される。嘉永2年(1849)種痘法伝習の命を受け、長崎に急行。楢林宗建に学んで牛痘苗を萩に持ち帰り、兄らとともに藩内初の種痘を実施した。嘉永3年、西洋原書頭取役、嘉永5年、好生館都講役を歴任した。 安政2年(1855)好生館に付属して西洋学所が設立されると、西洋学師範掛となる。安政5年、コレラ予防法を編纂し、文久元年(1861)好生堂助教役、文久3年(1863)藩世子毛利元徳(定広)の侍医となる。元治元年(1864)好生堂教諭役、医学館長、藩主毛利敬親の侍医に昇進し、西洋医学発展に尽くす。慶応2年(1866)三浦家から周蔵を養子に迎えた。 明治2年(1869)典薬寮医師を経て、明治天皇の大典医となる。翌年、天皇に従って東京深川の閲兵式に参列した帰途、事故死した。

青木研蔵

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