山根正次(やまねまさつぐ)

教育・文化

衛生行政に尽力した医学者・政治家

【生没年】安政4(1857年)- 大正14(1925年)

【享年】 69 歳

【誕生地】長門国萩香川津(萩市椿東)

【墓】萩市前小畑 東京都港区(青山霊園)

明治3年(1870)藩の医学校で蘭学を修め、萩中学(藩校明倫館の後身)でドイツ人教師ヒレルに学ぶ。明治15年、東京大学医学部を卒業、長崎県医学校一等教諭として赴任する。 明治18、19年、長崎でコレラ病が大流行したため検疫委員や伝染病予防委員に任じられ、臨床経験をもとに明治20年『虎列剌病汎論』を刊行。衛生上の理由から、長崎市に上水道敷設の急務を力説し採用された(明治24年に供用開始)。また、裁判医学の振興を山田顕義法相に建議して受け入れられ、明治20年、長崎医学校を辞めて司法省雇となり、ヨーロッパへ派遣されて法医学、衛生行政などを学んだ。 明治24年に帰国後、警察医長、内務省検疫委員などを歴任し、衛生行政に尽力する。明治35年、山口県から衆議院議員に初当選。明治37年、私立日本医学校(現在の日本医科大学)の創立に関与、初代校長となり後進を育成した。明治39年、帝国議会に帝国聨合医会草案の「医師法案」を提出、「医師法」が発布・施行される。大正9年(1920)政界を引退後、東京駒込の特許消毒株式会社社長となった。

(C)萩博物館

山根正次