遠藤謹助(えんどうきんすけ)

産業・経済

造幣制度の確立に尽力した造幣局長

【生没年】天保7(1836年)- 明治26(1893年)

【享年】 58 歳

【誕生地】長門国萩(萩市)

【墓】東京都文京区(麟祥院)

萩藩士遠藤太市郎の弟として、萩に生まれる(墓誌による)。藩船壬戌丸に乗り組み航海術を学ぶ。文久3年(1863)、井上馨(聞多)・伊藤博文(俊輔)らとロンドンに秘密留学したが、慶応2年(1866)に急きょ帰国する。その理由は成績不振とも、病気のためとも言われる。帰国後は外交官として、藩主父子とイギリスのキング提督との会談で通訳を務めるなど活躍。明治元年(1868)、明治政府に出仕。開港間もない神戸の運上所に勤務し近代的な病院建設に尽力するなどした。同年11月から始まった大阪の造幣寮(のち造幣局)建設に関わり、同3年11月には造幣権頭(造幣頭につぐ地位)に抜擢される。銀本位制を主張したり、造幣関係の諸規則・諸制度の改革を唱えたりしたが、「お雇い外国人」の造幣首長キンドルと激しく対立し、同7年8月辞職した。しかし同14年11月に造幣局長として復帰。日本人による造幣技術確立を目指し、外国人技術者の排除に努め、同22年、日本人だけの手で銅貨鋳造に成功した。また同16年から、造幣局構内で桜並木の「通り抜け」を始めた。

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遠藤謹助