広沢真臣(ひろさわさねおみ)

政治・軍事

長州藩実務担当者・明治政府高官

【生没年】天保4(1833年)- 明治4(1871年)

【享年】 39 歳

【誕生地】長門国萩土原村(萩市)

【墓】東京都世田谷区(大夫山) 山口市赤妻町

藩士柏村家に生まれ、波多野家の養子となる。19歳の嘉永4年(1851)御前警衛を命じられ、嘉永6年、ペリー来航のさい大森台場警衛のため出張した。その後、蔵元検使、大検使役、有備館用掛などを歴任。文久3年(1863)当役手元役となり、実務官僚として藩に仕える一方、尊王攘夷運動にも参加した。 元治元年(1864)禁門の変後、椋梨藤太らの保守派により野山獄に投じられたが、慶応元年(1865)出獄し、藩命により広沢と改姓。翌年、厳島(広島県廿日市市宮島)で勝海舟と応接し、長州戦争(四境戦争)の休戦協定を結ぶ。慶応3年、山口で薩摩藩の大久保利通らと討幕出兵協定を締結したあと、上京して討幕の密勅を持ち帰った。 明治元年(1868)新政府の参与に登用され、海陸軍務掛や内国事務掛を歴任し、木戸孝允(桂小五郎)と並ぶ長州藩の代表的存在となる。翌年、薩長土藩士よりなる丸山会議に出席し、版籍奉還の実現に尽力した。その後、民部大輔兼参議として重職を担ったが、同4年、刺客により暗殺された。

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広沢真臣