品川弥二郎(しながわやじろう)

政治・軍事

信用組合制度普及に努めた政治家

【生没年】天保14(1843年)- 明治33(1900年)

【享年】 58 歳

【誕生地】長門国萩松本村(萩市椿東)

【墓】京都市東山区(霊山墓地)

萩藩士。政治家。下級武士の家に生まれる。15歳の時、吉田松陰が主宰する松下村塾に入門。松陰からその才を愛された。安政5年(1858)12月、藩が松陰に投獄を命じたさい、同志とともに藩政府に抗議したため、謹慎に処される。松陰没後は攘夷運動に参加し、文久3年(1863)には士雇となる。元治元年(1864)7月、八幡隊を率い禁門の変で戦ったが、敗れて帰国。その年8月、同志と御楯隊を組織し、藩内戦などで活躍。慶応3年(1867)10月には京都で岩倉具視から錦旗調製を託され、さらに討幕の密勅を奉じ山口に帰る。明治3年(1870)、普仏戦争視察のため渡欧し、プロイセンの農政・協同組合などを研究して明治9年に帰国。大日本農会など産業団体結成に尽力し、駐独大使などを務める。第1次松方正義内閣の内務大臣となるも明治25年、第2回総選挙で大選挙干渉を行い、激しい非難を浴びて辞任。先に亡くなった師友に対する思いが強く、京都に尊攘堂を建て、その遺墨を収集した(現在は京都大学附属図書館に収められている)。東京都千代田区九段下には銅像が現存。

品川弥二郎

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