中嶋治平(なかしまじへい)

産業・経済

幕末の実用科学の先駆者

【生没年】文政6(1823年)- 慶応2(1866年)

【享年】 44 歳

【誕生地】長門国萩浜崎新町(萩市)

【墓】萩市北古萩町(浄国寺)

藩の朝鮮通詞中嶋家に生まれる。安政3年(1856)長崎に私費遊学、朝鮮語のほかオランダ語や英語も学ぶ。安政5年、大流行したコレラの予防法を藩に急報。その功により公費遊学、オランダ人からの直接の伝習が認められ、軍医ポンペから分析術、長崎製鉄所主任技師ハルデスから蒸気機関学理論や冶金学などを学んだ。 安政6年(1859)に帰藩、製鉄法の翻訳書を藩に提出し鉄工局の開設を建白する。万延元年(1860)鉄工局の開設と分析術の利用法を再度建白し、藩主別邸の南園(萩市江向)内に設立された硝子製造所の見合役となる。同年、藩命により薩摩藩に赴き硝子製造や反射炉などを視察、長崎で蒸気器械や蒸気車模型を購入し、文久元年(1861)それらの試運転を萩城内にて、藩主毛利敬親の御前で行った。その後も分析術の必要性を藩に説き続ける一方、文久3年の下関攘夷戦で撃沈された蒸気軍艦壬戌丸の引き上げ、藩内鉱区調査などに奔走。ほかに写真術・パン製造・染色・人工硝石などの実用化を図り、慶応2年(1866)に設立された舎密局(理化学の研究所)の総裁となるも急逝した。

(C)萩博物館

中嶋治平