妻木寿之進 (妻木狷介)(つまきひさのしん (つまきけんすけ))

政治・軍事

岡山県政に手腕発揮した地方官

【生没年】弘化3(1846年)- 明治23(1890年)

【享年】 45 歳

【誕生地】長門国萩前小畑(萩市椿東)

【墓】萩市恵美須町(法華寺) 山口市八幡馬場(神福寺)

藩校明倫館で山鹿流兵学を吉田松陰に学んだ高弟、妻木弥次郎の子として生まれる。明倫館に学び、12歳の安政4年(1857)松下村塾に入り、松陰から俊才ぶりを称賛された。 18歳の文久3年(1863)父が病没し家督をつぐ。のちに干城隊に属し、慶応2年(1866)長州戦争(四境戦争)では芸州口へ出撃した。 明治元年(1868)文学寮教授方助役、都講役試補となり、明倫館で教授にあたる。明治5年には山口中学(明倫館改め)の一等助教に任じられるが、まもなく学制頒布にともない山口中学はいったん廃止となり、解雇される。 明治6年(1873)若松県(福島県)に転出。明治9年、神奈川県学務課長を経て、福井県・島根県・滋賀県の書記官を歴任する。明治19年、岡山県書記官となり、第三高等中学校医学部(のちの岡山医学専門学校、現在は岡山大学医学部となる)の開校に尽力した。 明治23年(1890)に召集された臨時議会で知事代行をつとめるが、まもなく健康を害し急逝した。『山陽新報』掲載の追悼文で「良書記官を失いたり」と惜しまれた。

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