河北義次郎 (河北俊弼)(かわきたぎじろう (かわきたとしすけ))

政治・軍事

近代国家形成期に活躍した外交官

【生没年】弘化元(1844年)- 明治24(1891年)

【享年】 48 歳

【誕生地】長門国萩松本村上野(萩市椿東)

【墓】東京都港区(青山霊園)

藩校明倫館に学び、15歳の安政5年(1858)松下村塾に入る。元治元年(1864)干城隊に入り、久坂玄瑞らとともに上京。京都藩邸を中心に情報収集にあたるも禁門の変で鷹司邸に突入し敗走する。のちに品川弥二郎らの御楯隊に参加、慶応元年(1865)藩内戦では大田(美祢市)に戦い、翌年、長州戦争(四境戦争)では芸州口に出撃した。兵学修業のため長崎に派遣され、慶応3年、御楯隊が鴻城隊と合して整武隊となると、軍監に任じられた。 慶応3年(1867)、藩命により渡辺蒿蔵・飯田俊徳とともに米国へ留学。さらに英国へ渡ってロンドン大学のユニバーシティ・カレッジに入り、法学などを学ぶ。明治5年(1872)在英公使館御用掛となり、官費留学を継続した。 明治6年に帰国、佐賀の乱や西南戦争の鎮定に活躍し、陸軍歩兵少佐となる。のちに広島鎮台衛戍司令官、各地連隊の大隊長を歴任。明治21年(1888)外交官に転じ、サンフランシスコ領事として赴任する。明治23年、在韓国京城公使館の書記官となり、まもなく同公使館の代理公使となるが、現地で病没した。

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河北義次郎 (河北俊弼)